サイドストーリー

13 結び

吉田啓吾は齢70歳を迎えたいま、その殆どの人生を親父との葛藤の中に生きてきたことを、もはや悔やむこともなくただひたすらに思い出としながら反芻している。一方では親父への憎しみの陰に隠れて、母親に対しての深い思い出を何一つつくることができなかっ…

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母が亡くなってから、私は結婚した。 私は最大に懸念したのは、連れ添う相手と親父の関係だった。同居だったのでこんな親父が衝突しないわけがないとの想いだった。 しかし、ある意味親父は利口だった、自分を世話してくれる相手には強いことは言わなかった…

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大学を卒業すると同時に私は、そのまま会社の勤めを継続していた。四年の半ばから同級生は就職活動に忙しかったが、私はそのまま今の会社に居ようとはなから決めていた。就職活動が面倒だったせいもある。 親父はと言えば、井関農機の契約金を使い果たしたの…

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翌春、今度は都内の工業系の私大ばかりを受験した。目標は、芝浦工大だったが、あっさり落ちてしまった。救われたのが東京電機大だった。当時、工業高校用の専門科目受験制度もあって、それに救われた。基本的には自信を持った物理や数学など普通高校卒業の…

祖母のケジメもついて、親父や母が東京に変える間際に、親父から、この家は処分することにしたから、お前はここには帰ってこれないが、いいな。と話をした。私には、大学のことで自分の迷いもあったが、この家とは異なることなので、ただ、はいと返事をした…

高校三年も後期になり、級友はそれぞれに進路を決める時がやってきました。高校では、一年から三年まで一貫して通信士になる専門クラスに居ましたから、主要な級友は既に三級無線通信士の資格を得て漁船に乗る進路を決めていたり、或いは更に上級の資格を得…

中学から高校へと私の進路を決める際に、我が家に事件が起こりました。親父は、長姉の旦那さんが医者でしたので、将来は医者になるために大学進学率の高い高校に行けと母に主張していたようです。私はと言えば、余りに無線に熱中した結果、船舶通信士になる…

ある日、また母親が私に告げました。 「この旅館を止めて、今度、新しい家に引っ越すから荷物をまとめておいてね。その新しい家が建つまでは、仮住まいとなるけんね、狭いところやけど我慢するとよ」 私には、今回まとめるものは学校の道具と僅かな部品だけ…

個室を得てから、私の化学への関心はのめり込んでいったように思われます。中学生のことですから難しい実験は及びも付きませんが、少年向けの科学雑誌を見ては電気分解やメッキなどを行っていました。実験もさることながら、私は形から入ることが得意なよう…

バレーボールの練習を終えて家に帰ったある日、家の中は静かでした。従業員も誰一人居ず、親父もどこかに出かけているようでした。母が、一人で幾つかの布団袋の上にちょこんと腰を掛け泣いていました。見回すと家具のすべてに赤い紙が貼ってありました。何…

中学に進んだ時のことです、私はクラブ活動でボーイスカウトに入りました。ボーイスカウトには一式の装備が必要で制服やキャンプ用品等を母にねだりました。これまでは必要なものは何一つ苦言なく買ってくれていたのですが、この時に母の言葉はお父さんに相…

明治生まれの親父は、第二次世界大戦に召集され陸軍の戦車部隊に配属されましたが、戦地に赴くことなく終戦となったと聞きました。 そして戦後直ぐに、博多の妙見という地で自転車屋を開業したのです。自転車屋を始めるキッカケや経緯は不明です。何故パン屋…

父と息子の憎しみ合った親子関係など、世間の日常には掃いて捨てるほどあるのでしょう。それぞれの係累の一生の中で、憎しみ合ったまま死別してしまうほど不幸なことはありませんが、現にそこまで許せない関係というのも、私の日常には溢れていたのです。 私…