おはようございます。
よく寝ました。
かなり楽になりました。体調の良し悪しは、思考の善し悪しに関わるようですね。


今朝の風の涼しさは、とても心地よく。
しかし、喉元過ぎれば熱さ忘れて、という例え通り人間と言うものは不思議でどうしようもない動物かも知れないね。戦前戦中戦後の苦しみや無念を忘れ原爆を忘れ、また隣人への無謀もそっくり忘れている。再び繰り返そうとしているとまでは言わないけれど、その説明やら配慮には、面倒臭ささや傲慢さが目に余る。
国民の目には、原発への対応が一つの根底にある事は、感じ取られているのではないだろうか。


私の誕生日は、8月15日だが、戦後翌年生まれだから、戦中の光景は目の中にも記憶にもない。
また、戦争に関する映画やニュースや繰り返される時期になってきたが、最近はもう目にしたくないという気分だ。言葉や映像で語られる事には、矢張り視点がある。偏向とまでは言わないが偏りはある。そうでなければ共感は得られないから。
だれしも、戦争が好ましいとは思ってはいない、あってはならない事である。そして、その戦争が起こるキッカケもあろう、憎しみの中に生まれる正義が戦争に駆り立てていくのでもあろう。この局面を煽動しない事が重要であろう。政治の力はここにこそある。政治家が身を挺して国民を操る事なく、交渉により戦争を回避しなければならない。勿論、国益を失う事なく。
戦争への分岐点は、これら交渉の途中で、政治家やマスコミが正義の言葉の力を借りて煽動するかにかかっている。
勿論、今の日本に、戦前のように自ら国益の拡大を積極的に主張して戦いを仕掛けていくような意識は全くない。むしろ、仕掛けられている状況は現実にある。


もう少ししたら仕事開始致しましょう。


鳳仙花は、ちょうど朝鮮戦争の最中にある。この物語は、戦前戦中戦後をフサという女性が、女として逞しく生きていく物語だが、こんな言葉で一括りするほど生易しいものではない。言葉は、本当に難しいものだ。
戦争を語る時に、戦争の正義ー正義らしさーと失われた人の命や多くの被害と困窮に見舞われたそれぞれの物語を、どのような言葉で語れば良いのだろうか。鳳仙花を読みながらそんな事を感じている。


1605現在。
保険屋さんが来て、生命保険の切替をした。ちょうど70歳になろうとする前の切替だ。新たに告知をして、その告知義務の項目は、私の病気経過について何ら対象になってはいない。
生き長らえて迷惑を掛けないで済ませる、これからを考えるとそんな準備が必要だ。この数週間の体調を思えば特にね。
ポックリ逝ければ良いのでしょうが、そうは世の中参りませんからね。
まあ、この手の話はここまでとして、仕事に戻ります。