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母が亡くなってから、私は結婚した。
私は最大に懸念したのは、連れ添う相手と親父の関係だった。同居だったのでこんな親父が衝突しないわけがないとの想いだった。
しかし、ある意味親父は利口だった、自分を世話してくれる相手には強いことは言わなかった。そして連れ合いは、上手に親父と接してくれた。きっと耐え難い親父の我儘はあったと思っている。非常に感謝している。
親父は、何かしら発明らしきものをすると、私が仕事から帰ってきて寛いでいると傍に来てこんな発明をしたんだが、買ってくれるところを一緒に探してくれないか、特許を出したいんだが知り合いの弁理士があるだろうから紹介してくれないか、お前もサラリーマンなんかの使われる人生でなく男だったら俺と事業をやってみないか、カタログをつくりたいんだがワープロで作ってくれないか、と声を掛けてきた。
私は、そう言われれば言われるほど頑なになり、全くその気もないし、紹介できる相手もいないし、手伝う気持ちもないから、疲れているから、と言って拒絶していた。
母が亡くなってからは、その様な私への申し出が多かったように思う。
私が相手にしないからか、今度はどうやって知り合ったのかは不明だが、近所の人に声を掛け、さらにその人の庭先を自分の植物置き場にしたり、知り合いにこの事業に投資しないかとの話を持ちかけたり、取引先を探すと言って車を出させたり、連れ合いが自分で買った車を勝手に使ってぶつけてしまい、更に相手方から借りた代車を再びぶつけてしまい怒鳴り込まれたり、かなりの出来事が発生した。
投資話を持ち掛けた近所の老人の家族が心配して抗議に来たり、相手の庭を借りた家族からは邪魔だから即刻取り除いてほしいと怒鳴り込まれたり、が繰り返された。
このころになると、少し呆けと執念が交じり合っていたのではないかとも想像できなくはない。しかし、我々は日常の生活の中で、これが事件にならぬように、他人に迷惑を掛けないようにと、戦々恐々としていたのである。


親父との関係では、二度と転居しようなどという話は出なかった。
しかし、庭が狭い、実験するにはもっと広いところが欲しいなと、言い暮らしてはいた。その結果は広いところに転居しようではなくて、広い畑を借りる事だったと思っている。事あるごとに近隣の人に話しかけ、空いている庭はないか、あれば軒先を貸して欲しい。上手くいけば事業を一緒にやりましょう。という話だった。

母が亡くなって、親戚がうちに集まった日、親戚、姉や妹たち、は親父を責めた。途中で親父はかんかんに怒り、もうお前たちには何もしてやらんと、席を立った。親戚が怒る点は、もういい加減に引退なり卒業して息子に迷惑をかけるな、さんざん母親に迷惑をかけてもきたのだから。さらには、親父の実家の庭を再び借りる、そのくらいの恩義はあるはずだなどの理屈に対する、姉妹たちの意見だと思う。
また、母親の葬式には親父に口出させずに私が一切を取り仕切った。これも親父には気に食わなかったと思う。しかし、私には金がなかったし、せめて母の葬式は親父の手に委ねたくなかった。憎しみの結果である。
親父にしてみれば、自分の連れ合いなのに、という思いだったと思うが、私の憎しみがそれを越えていた。汚されたくなかったのだ。特に母が死ぬまでの親父の行動について。
何度、親父こそ早く逝ってしまわないんだ、母親こそこれから自分の家でのんびりと過ごさせてあげたかったのに。


私が結婚してからは、実質的に親父が自分の力で家計を支える等のことはなかった。ほんの僅かな収入はあったろうが、定期的に家計を支えるものではなかったし、家計は私の働きと連れ合いの自宅での請負仕事に支えられていた。
つまり、親父は働かずとも家族の一員として暮らしていける状況がそこに生まれたのだ。
これは、大きな意味で親父に一つの転機を与えたのかもしれない。
それは、生活に追われることなく、自分の好きなことは好きな範囲で自由にやれるんだということだったと思う。
それから、親父は自分の発明仕事に熱を入れ始めた。植物関係に関らず、健康器具などにも手を出していた。親父のやり方は、これまでと違い、木工で試作品を作ると、自分だけの感触で、すぐに販売に供する製品として製造することを考え、外部に委託することだった。私たち家族には、お金の迷惑をかけることはなかったが、製作代金を払ってくれなどの督促電話は良くかかって来ていた。
結局、それらの製品は売れることなく、尻切れトンボに終わり続けた。終わり続けたというのは、次から次に思いつくままにそのような小さな事業化を図っていたのだ。
時には、私に製品のカタログやチラシを作ってくれないか、販売先はどこがいいだろう、良くできたと思うから使ってみてくれないか、印刷会社を紹介してくれないか、等などの協力を求めてきたが、私は話を最後まで聞くこともなく拒絶するように、疲れているからと話を打ち切った。
このことについては、もう少し話を聞いてあげても良かったと思うが、親父の場合にはその続きがどんどんと膨らみ、とんでもないことになることは必須だったので、その様な話には決して乗らないという姿勢を示した。
もちろん、瞬間には可哀そうだなという気持ちが僅かに、しかし必ず起こりもするが、冷たく拒絶した。


親父が、屋根上に植物を置いていることから近隣との揉め事も発生し、また家そのものの痛みが激しくなり、小さな虫がポトンポトンと落ちてくるようになり、庭が全く使えず洗濯物を干すにも一苦労している情況を見て私は家を建て替えることを決意した。もちろん連れ合いには異存はなかった。
問題は親父だったし、今度は親父の部屋の目の前の小さな部分だけが親父に使える、という話をして新しい家の全容はまったく相談なしだった。
新しい家に建て替えるために三か月ほどすぐ近くに仮住まいをしたが、久しぶりの引っ越しは、その荷物が多いことに驚いた。
結局永住する気持ちが根付いて住み始めると荷物は巨大化するということに。


新しい家に移って、親父との問題はたて続いた。結局は、こんな小さな面積では自分の思うことは何一つできない。ということが主張だった。この時は、これがいい機会だと思って、お父さん、もうこれまでのような仕事はやめてほしい、それから新しい家になったんだから綺麗に住まってほしいと、突っぱねた。
また、その小さな場所に小屋を建てたい、と近くの建設業者に見積りまで取ってきた。これに対しては、丁寧に業者さんに断わり、親父には、お父さんもう自分で商売するなんてことはあきらめてください。花を植えるなんてことまで拒絶をしません。とにかく家を大事にきれいに使うこと以外には反対しますから。といって拒絶した。
親父の胸中はどんなものだったんだろう。瞬間瞬間を捉えれば、そこまで拒絶をしなくてもと自分でも思うが、親父は一つが解放されれば次々と侵攻するので、はっきりと態度を示す必要があった。
しかしよく考えると、親父には痴呆が出始めていたんではないかとも想像できる。
新しい家に、二階があると分かれば、その場所を使わせてくれ、屋上までがあると知れば、なんで俺に使わせないんだ。と怒り出す。
兎に角、私たちは、この家は親父の自由にはさせないと決めて対応していた。
親父は、機嫌が良ければ日本酒をわずかにのみ、都度お前はつまらないサラリーマンなんかやってなくて、どうだ俺と商売しないか、と切り出す。だから私は、親父が晩酌をしているときはそそくさと晩御飯を済ませ、自分の部屋に移った。
それにしても、このような親父を丁寧に上手く扱ってくれた連れ合いには感謝の他はない。どうせなら、親父ではなく母親と連れ合いの穏やかな生活があれば良かっただろうに、と思っていた。


親父が痴ほう症だと認識したのは、亡くなる数年前からだろうか。
何が無くなった、かにがなくなった。
薬を、調剤薬局がくすねた。
深夜に誰かが訪ねてきた。
この植物育成器は成功した。農業試験場の折り紙も付いた。大々的に販売したい。印刷屋と話をする。(実は農業試験場の折り紙というのは、分析結果の証書であって何が優れているというようなものではない)
結局、近くの病院に入院させたが、途中で抜け出したり、刃物を持ち出したて抵抗したり、私の姉やその連れ合いの顔も忘れ、あんたは誰ね?というような状況になってしまった。
結果、その病院で気管を詰まらせ逝ってしまった。92歳であった。
ここに述べたように、親父は92歳までほぼ一人の力で生きてきた頑固な人であった。発明で生き、商売で生き続けてきた一徹の人であった。
その生涯は、誠に自由人だったと思うし、私達から見ると極めて我儘な人であった。しかし、振り返ってみれば、その中にも母に対する愛情や、私に対する愛情も多々あったのだと思っている。しかし、肝心な息子は、生涯をかけて憎み通し、ようやく70歳になるときにその情愛を振り返ることができている。
家族としては真に情けなく思う。一方では、憎み通したが故の今の思いであり、中途半端でなくてよかったとも考える。
肝心なのは、親父を憎み通したがゆえに、親父と真面目に話したこともなく母との喧嘩での感情がそれを想起させたのであり、結果親父のことは憎しみを感じた瞬間瞬間の現象とその時の自分の感情だけが残っているしかない。
また、最大に不幸だと思っているのは、親父については憎しみがあるだけ記憶があるからまだ救われる。
母親については、親父の母に向かう感情の怒りの部分でしか、母を可哀そうだ守らなければという思いがあるだけで、いま考えると母と過ごした良き思い出などの記憶はまったくないのである。優しい母の顔が浮かぶだけのことでしかない。これは最大の不幸である。麻痺した手で有難うの言葉を書いてくれた、あの日のことを思い出すと。私は、絶望的に涙があふれてくる。
何の親孝行もできず、恩返しもする間もなく、いまからという時に母は逝ってしまった。悔しくって仕方がない。
それに比べ、親父は母の犠牲の上に立ち、母よりも何十年も長く、自分の好きなことを思うがままに、多少息子に拒絶されながらも、平気の平左で生きてきた。
いま私は70歳になって思うことは、親父がある意味羨ましい。似ているんだな、と思うのだ。DNAとでもいうのだろう。
一つ事決めたらとことんやる。創意工夫が好きである。我儘で人の言う事はあまり聞かない。とても似ているよね。悔しいけれど。
もし自分に息子がいて、私と同じように憎しみだけで一緒に暮らしていたら、と思うとぞっとするね。
それにしても生まれてこの方、二十回も引っ越しをするなんて尋常ではないよね。殆ど二年に一回だよね。親父には人に言えない苦労もあっただろう、破産をしたり騙されたり、事業に失敗したり、周りが上手く手伝ってくれなかったり、周りがみんなバカばっかりだったり。よく耐えてきたと思う。いや耐えているとこうはならなかったかも知れないな。何も感じなかったか、ポジティブだったんだろうね。根っから粘り強く打たれ強かったのかもしれない。