21.言葉遊び

私たちの思考や発想は全て言葉で行われています。つまり言葉なくして知の小道具はありえない、というわけです。
私は、どうせ言葉と深く付き合うのならという思いと、言葉が好きだということもあり、時間があれば言葉遊びをやっています。
私がFacebookTwitterを使っているのは、その言葉遊びのためでもあると言っても良いでしょう。言葉遊びと言ってしまえば何やらバカにしていると受け止められ、誤解を招くかもしれませんが、つまりは日常の自分の出来事や想いを、俳句や短歌や詩歌にしてアップしているだけのことなんです。日記代わりの俳句や短歌と思っているんです。
かと言って、俳句や短歌や詩歌をきちんと学ぼうなんて気もさらさらなく、思い浮かぶままに、単に俳句や短歌のフォーマットに似せた言葉遊びをしているだけのことなんですね。


言葉というものは、思い浮かんだ通りに表すも良し、捻って俳句や短歌にするも良し、まことに自由なものです。どうせ言葉を使うなら、面白がったり、情緒あふれたり、するのも一興でありませんか。
論理や説得力や整合性ばかりを考えて言葉をつくるより、ある意味情景が浮かんだり、感動を与えたりする言葉を試しては如何でしょう。たまには駄洒落を良いものですよ。
私は、どうせ言葉と向き合うなら、いつもの情感と向き合っていたいと考えて、決して得意でもありませんが、俳句や短歌や詩歌にしてしまいます。時々字余りで形式を無視しますが、そんなことは気にしません。
写真は苦手なので、写真のように言葉で風景を切り取るだけのことですが、私の性分にはよく合っているようです。


風景や情感を短い言葉で表すには俳句や短歌の形式は便利です。しかし私には、多感なこともあり、また歌が好きだということもあって、いつか自分で創った歌を唄いたいという気持ちがあります。
古い昔ですが、矢沢永吉さんの伝記を読んで、私も100の歌を書いてみたいと触発されたことがありました。結局は90数曲で止まってしまいましたが、あと数曲ならば死ぬ迄には達成できると、急速にペースが落ちてしまってます。
歌うための歌詞はそれなりの長さが必要なので、俳句や短歌のようにささっと、というわけにはいきませんが、これはそれなりに面白いものです。
このように私の場合は、言葉遊びですが、絵を描く絵遊びや、音遊び、芝居遊びなどの表現について、いろいろと楽しんでいただければと思ってます。


もう皆さんすっかりお分かりになっていると思いますが、この原稿は気ままに書き殴っており、推敲も誤字脱字も訂正してはおりません。つまり、湧き出すものを統制したり制御することは、ひとまとまりになった次のステップで充分だというのが私の考えです。書きたいことをその時に、メモでも良いから取っておく。その積み重ねが何かを表すことになる。そんな素朴が長続きの秘訣だと思っています。
このブログさえも、ほぼ毎日5000日以上書き連ねていますが、嫌だなと思ったことは一度もありません。長続きは、大きな一つの価値でもあるのです。