おはようございます。
ほぼ快晴です。いつも朝は慌しくしておりますが、ゆっくりと朝日を浴びていると、その暖かさに幸せを感じます。


今朝もまだ喉はガラガラとしています。
煙草によるガラガラと喋りすぎたガラガラ。極め付けは、余りに閉じこもった、方向の異なる意見と解釈の棘の突き刺さりによるガラガラでしょう。


昨日からの車中読書は、小さな出版社の作り方に入りました。大手の出版社から独立して二人の編集者が始めた会社からの始まりです。その想いと情熱は、やはり本が好きだという事に尽きる。まだ始まったばかりですが、ゆっくりとこの時間を楽しまさせていただきます。
私は編集を仕事とした事はないが、編集者というより、広い意味での編集という作業には魅力を感じている。と言うか一つの人の才能の評価視点を持っている。
情報の素材は沢山ある。その中のエッセンスを抽出し、まとめて分かりやすく配置する。ビジュアル的にも論理的にも。
私にも少しはその力はあると思うが、キーマンにはかなわない。そして相棒は自ら工夫編集してメルマガを作っている。視点が面白く楽しみにしている。毎回のテーマと内容を瞬間瞬間で切りさばき、それをまた永らく続ける事ができる、大局と微細の理解と配置、それが才能なんだと思っている。


再び伊集院静さんのなぎさホテルについて。
伊集院さんの若かりし日には、人と上手く折り合いがつかず鬱々とし荒くれた日を送り、その結果東京を逃れようとし、たまたま逗子で海を見るために下車した。ふとした出会いで、なぎさホテルの支配人と出会いそれから7年間ものホテル逗留となる。ある意味、出世払いに近い逗留であったろうが、瞬間の出会いが大事にされ大事にする人とのつながりを醸成する。この7年間に小説家としての伊集院静さんが新生した。
海は、このような人を包み込むような優しさと激りを育むのだと思っている。私も、高校3年間、毎日博多湾を船で横切り、渚の校舎と校庭で過ごした事が、自然に育まれた何かを持つ事ができたのではないかと思っている。それ以前にも以降にも、私には海とのつながりはない。義父の墓参りで、毎年数回房総の波乗りハイウエイと出会うまでは。
時折、波乗りハイウエイの終点近くの休憩所で、砂浜に遊び寝っ転がって波と空を見る事がある。その時に高校3年間の間に、校庭の砂浜で同じ様にして海と空を眺めていた事を思い出す。しかしその光景はあるものの、何を考えていたかにまでは遡れない。あまり感度が高い青春時代ではなかったので、ひたすら茫洋としていただけなのかも知れない。
しかし、今もって海が好きだ。


1040現在。
急に曇ってきた。朝日は何処かに隠れてしまって、暖かい陽だまりは失われてしまった。
庭では連れ合いと義母が、草花を摘み笑いあっている。


久し振りに文章のハウツウ本を見ている。いま人気のDaiGoさんの手になるもので、人を操る禁断の文章術、という本だ。TVで時折見かけるDaiGoさんだが、あの笑顔がとても好きである。一方、TVのDLifeチャンネルでメンタリストという海外ミステリードラマも好きで欠かさず見ている。
メンタリストとは、これまでと分析者だと思い込んでいた。つまり人の考える事を、表情や言葉から読み取り、その内容を言い当てるものだと。だからこの本のタイトルを見た時に、メンタリストと文章作成が結び付くと思わず、どんな視点で、と立ち読みしてしまった。
しかしちょっと違っていた様だ。結果はその様かも知れないが、思い通りに相手を誘導する人の事をメンタリストということらしい。誘導した結果、本音や真実にたどり着くということかも知れない。誘導するという言葉を聞くと、何やら禍々しい様に聞こえるが、私は率直にプレゼンテーションと同じだ、エレベーターピッチと同じだろうと解釈する。いずれも誘導であり、私が正しいのだから、この道に来なさいというものではなかろう。それではプレゼンテーションにもエレベーターピッチにもならないからだ。究極は、私はこう考えます、という伝え方の方法論だと思っている。
裁判でも同様である。証拠に基づいて、事実を上げ、その少し遠い推定を述べ、印象の杭打ちを裁判官にアピールする。裁判官もその中間くらいのところに認定の着地をする。これは、誘導である。
DaiGoさんのこの本を読んでいて、なるほどと思うところは随所にある。文章の理屈では無く、感情を揺らす杭打ちなんだと。あっと言う間に読み終えると思うが、役立てたい。


1830現在。
きょうはのんびりできたなー、と言うかゴロゴロしてた。もう夕暮れだ。こんな日は時計の速度が速い。
猫のあくび写真を見てたら、突然仕事が一つ残っていたのを思い出した、がもう明日にする。何もしたくない一日。あくびして終わりたい。