我がトラウマも エイちゃんの話で 救われる お初天神通りの夜。 

おはようございます。
8時起床。大阪の朝は晴れ。目覚め快調だがやや身体重し。
昨夜は、会社の納会のあとでお初天神通りにて2次会3次会まで。結構酔っぱらってしまった。
宴席のつまみは大いなる議論。お腹一杯の議論は、皆言いたいことを出し切ったか? まだ物足りないような幕切れであったが、結論がある訳ではない。腹蔵なく言い合うことに意味があるのだろう。
自分も決して嫌な気持ちではなかった。むしろこういう仲間がいることが嬉しいと思っている。
ただ議論の軍配はどちらに上がっているかは我のみぞ知るということであろう。


昨日の仕事は、朝から猛烈に忙しく、資料づくりに追われて、ギリギリ14時に全てを完了させることができた。
相棒の仕事の成果が朝一番に無駄になる事態も発生したが、自分も作業を手掛けてみて、皆の声は統計では伝わらないことにも気がつき、結局は粘り強く、”どうあればいいのか、皆が楽しみにしている事”などをキーマンと話しあって、少し手直しすることで当初の相棒の想いを実現することができた。安堵したことだろうが、気を揉ませたことは詫びなければならない。


我々の仕事は、まず想いがあること。なおかつ何度揺り戻されてもいろいろな方向から粘り強く話し合うことだと思っている。その結果が、自分を納得させ、相手も納得することにつながると思っている。
昨日は、年初のための資料作りを、丸2日かけてキーマンと改造修正しながら取り組んでいたが、これこそ粘り強くないと出来ない仕事だ。何を伝えるかの想いが分かるだけに一心同体で作業を繰り返すことに何の躊躇もない。
午後からは、TV会議にて2時間ほど議論をしたが、すぐに議事録を見たいというので、これまた瞬間芸の様な早業で作成したが、これは疲労を極度に高めてしまった。
この疲労感で納会の酒を飲んだので、すぐさま酔っぱらってしまった。
今年も激しい一年であったな。最後に深夜お初天神様にお参りに行ったが、既に門は閉まっており、外から頭を下げてきた。
ホテルに帰るとそのまま寝ついて今日を迎えたということでございました。
最後に、エイチャンの話が出て我がトラウマは救われたかな。


15時50分現在。帰宅。
長旅も終わった。
この一年も慌ただしかったが、善き一年であったな。様々なことに心騒ぎもしたが、終わって見れば懐かしく。
きょうはこの後のんびりと過ごして、気が向けば自分の年賀状を作ることにしよう。まだ何にも考えていない。昨年同様、詩歌でもいいかなと思っているんだが、余りにも奇抜すぎるかも。


のぞみ車中の読書は”利休にたずねよ”を半ばまで。
利休に尽くす後添いの妻が、利休の心に秘めた女性の姿があるのを感じて続けて、ある日思い切って問う場面がある。利休は、お前が掛け替えない妻だという。しかし心の中には若き時代に心奪われた異国の女性がいつも住んでいる。茶の道に邁進したのもこの女性への思慕を断ち切るため。
この物語は、利休が秀吉によって切腹させられる日から、古い日を遡っていくという不思議な表し方。しかし難なく抵抗もなく読めるところは素晴らしい。
利休が心砕くのは、いつもどうすれば客人のために一時の心安らげる空間と時間を作れるのかを、美や侘びとともに突き詰める。
このことは自分の仕事と同じで、どれだけ相手の心を読み取り、先んじて設えておくということに等しく、ある意味緊張感を持って読んでいる。


一方、マーケティングの本を合わせ読みしている。なかなかに魅かれる内容である。だが、何かぬぐい去れない思いもわいてくる。それは、成功事例を解き明かす件で、いろいろな分析を加え、だから成功したんだと結論付ける事についてである。
しかし、引っかかるんだ。後付けでは何とでもいえよう。またそれらしきことはあるだろう。が、ヒットする商品を作ることは、その要件を組み立てて作ることで行われていないと思うのだ。それよりなにより、長い思考の醸成により、こだわりのある着想が、突き動かされるアイデアが閃くことからはじまる。次いで人から認められなくてもけなされても、市場に出すまでの手続きや説得の山を乗り越えさせる勇気と粘り強い交渉が必要となる。
こんな人間ぽい事が、マーケティングの本の中からはうかがえない。ヒットする要件が満たされればヒットするのではなく、ヒットした陰には、その要件も含まれていただけなんだ。


20時現在。転寝から目覚める。
家についてから疲れていたのだろう、こたつの中で転寝をしてしまった。
点けていたテレビ番組の内容はほとんど記憶にない。
いま、昨夜の議論を思い出している。酒の上の議論ではあるが思いのたけは十分に表れていた。
相棒の意見は、酔いもあってか感情が先走るのか、想いが迸っている。言葉はピンポイントの的を射止めてはいないが、だが強く感じさせるのは、逆にピンポイントの的を聞いている側に十分想起させることだ。だから感じ取れる。分かるんだな。
対する相手方は、立場を得て自分は変わりつつある。という前置きの下、こうあるべきだをストレートに述べる。納得は出来る。が、伝わってはこない。意見が強すぎるからだと思う。余りに断定的に”人間って、組織って”の話をされると、受け取る側は”人生いろいろあるんだよ”と言いたくなる。
何が言いたいかといえば、教条的な意見は理屈は分かるが反感も呼ぶ。伝えるのは心の想いだ。熱い気持ちなんだ。言いたいことをこれが答えだと箇条書きに伝えても、その想いが伝わらない、ということでもある。
相棒は先日お母さんを亡くし、その病院に入っていたテレビが我が社のものであった事を語っていたが、その目には涙が浮かんでいた。幾つかの想いが溢れ出てきたんだろう。これは議論の中の詩情(私情の間違いではない)である。伝えたかったことは自分には十分に伝わっていた。
以前、相手方と話していて10年前のある不幸な出来事について話していた時に、彼は涙をこぼした。言葉は少なかった。率直に詫びていた。情況が分かる者同士では、多くの言葉は不要だ。
それだけに僅かにしか相手の状況が分からないときに、言葉で切り付けてはいけない、断定する議論はもってのほかだと思う。どれだけの想いが相手にあるのかまず聞くことから始めることなんだろう。それが議論は聞くことから始まるという所以ではなかろうか。


24時半現在。
寝ながら”少年メリケンバンド”という映画を見た。なかなかに面白く。
本日は終了。


朝:法華クラブでのバイキング
昼:東京駅構内で好物の頂上麺(筑紫楼)
晩:ポークソテー、お味噌汁、三穀物米ご飯