生みだしたものは 最早独り歩き 親の想いとは別なところに。

おはようございます。
9時起床。天気は小雨。よく寝ました。
今朝は早速、義妹も家に来て義兄、連れ合い、義妹で連れだって高輪へ出かけて行った。ワンルームへの引っ越しというから、さほど大変ではないと思うが、雨というのが何とも煩わしい。
自分の本日の予定は、午前中は”幸福な生活”を読み、午後からは床屋さんかな。晴れていれば歩いていくのだが。
静かな午前を過ごそう。タイミング良く、FMから”デスペラド”が流れてきた。胸はキュンとなり、”意地を張るのはおやめ”とひとり空に向かってつぶやいた。
義兄と、つかの間の朝、僅かに映画制作の話をした。想像のつかない世界だ。


1530現在。
百田尚樹”さんの”幸福な生活”を読了した。衝撃を受けた。どんな衝撃なのかはまだ言葉にならない。人生、本当に残酷だと思わせる。中でも”夜の訪問者”、”ビデオレター”は結末の翌日からどんな生活が始まるのか。最後の”幸福の生活”は、全ての幸せは夢の中にある、いや夢の中にしかない。の思いを感じさせる。新たな百田さんを見た思いだ。読後の気持ちは、複雑な気持ちに見舞われている。小説の出来不出来ではなく、内容が意味することについて。


1830現在。まだ雨。
百田尚樹さんの呟きを見ていた。これまでも感じてはいるが作家の心はデリケートでナイーブなものだ。
前に西村賢太さんの作品を読んでいて、どれだけ他虐的な内容なんだろうという思いだったが、よく考えると心は自虐の強い裏返しなんだと感じ取った。作家の心の構造は、その本が書きたいものであれ書きたくないものであれ、長編であれ短編であれ、その瞬間占有している想いが凝縮されたもの。作品となって手を離れ生まれ出て、悔やまれることも大いにあるだろうが、生まれ出た物は、もう新しい意味を持ち独り歩きしている。いい意味も悪い意味も含めて。それが作家を苦しめるのだろうが、悔やまれる思いがあっても、読者が想起するものは違うかもしれない。
百田尚樹さんの”幸福な生活”について、ご自身で自虐的な悔やまれる感想を呟かれているが、私は悪い作品ではないと感じている。
百田さんの心底には深い愛情がいつも流れている作品ばかりだが、きっとその対極にある内容であることに自虐になられているんだろう。
私も異質であると思うが、タイトルの意味”幸福な生活”とは、を深く考えさせるいい作品だと思っている。


本日からの新たな読書は、”有川浩”さんの”海の底”だ。今度は巨大なザリガニが横須賀の基地を襲っているところから始まる。どれだけ奇想天外なんだろう、この人の作品は。