親父2

親父は、博多っ子らしく、気が短く見栄っ張りだった。
そんな気質は自分にも強く受けつがれているようだ。しかし、この年になると我慢強さは人には負けなくなってきた。随分、親子で意地の張り合いをしたものだが、今となっては親父も可愛かったんだなと思える。
意地っ張りであったがために、口には出さなかったが、親父もこの息子のために随分苦労したり悲しみにくれていたんだろう。

18才、高校を卒業した時に何もいわずに、そのまま大学に進学を許してくれ、相当苦しかった家計だろうに、ポンと入学金を出してくれた。そんな事情もわかるから、後の学費は自分で働いて出すから、と福間のパン工場に住み込みで働くことにしたんだ。その息子の申し出に、親父は黙って布団袋に布団をつめ、身の回りの荷物をまとめて、あのころ乗っていたルノーに荷物を乗せて、パン工場の寮まで送ってくれた。どんな気持ちで、送り出してくれたんだろう。

そうやって大学に入れてくれたのに、自分は大学にちっとも通わずに、パン工場の深夜の仕事に疲れてしまって、おまけに大学紛争というか、大学が破綻する騒動のために、嫌気が差していた。
しかし、そんな自分も大層不安だった。授業に殆ど出ていなかったために、進級などはありえなく、これから自分は一体どうなるのだろうという思いだった。

仕事のない日中は、疲れて寝ているか、直ぐ近くの海辺に出て遊んでいた。
大学は電子工学科だったが、大学紛争の御蔭で、また思想本の感化、カブレもあり、やり直すなら哲学科に進みたいと思っていた。よく本は読んでいたな。ロシア文学にもかぶれていた。

祖母が、その年の秋に脳溢血で死んだ時に、親父もお袋も東京から、葬儀と家の始末のために博多に来て、結局博多の家は売却することになった。家といっても、殆どが農地のようなもので、親父が自分で発明したという、育苗器を試すための実験畑を作っていた。
その畑の隅っこに、トタンで囲んだ小さな家を建てて、高校時代は一家で住んでいたんだ。当時は、もう水道が一般的だったが、家は井戸の手押しポンプで水を汲み上げていた。お風呂を一杯にする時は大変だったな。

その場所は、西鉄井尻駅から大分入った田舎だったが、バス通りに面しており、舗装がなくバスが巻き上げる多大な埃が、隙間だらけの家の中に充満すること夥しい限りであった。その頃に花粉症らしき症状を発症したことを覚えている。
バスが通るたびに砂利を跳ね飛ばし、トタン壁に当たり大きな音にビックリしていた。

祖母の葬儀も終わり、父母が東京に帰るとき、オドオドと親父に”大学を辞めたい”と言った。親父は気が短く、直ぐに激しく怒り出す気質で、子供のころは怖くてたまらなかった。
大学を辞めるなんてことを言おうものならと、そのときは声が震えたことを覚えている。
親父は、瞬間悲しい顔をした。が、何も言わなかった。どんな気持ちで受け止めていたんだろう。