親父3

中学生の頃、どうして出会ったかは忘れてしまったが、それまでの化学少年から、急にラジオ少年になってしまった。たまたま、同級生のお兄さんがハムをやっていると聞き、もう成人していた人だったが、その人の家に通い始めた。確か、JA1EQ●と言うコールサインでKさんという名前だった。いまだに記憶しているほど衝撃的だったのだろう。
そのKさんの教えで、中学2年生でハムの免許を取り開局に漕ぎ着けたが、のめり込みの激しさから、高校進学に当たって自分は通信士になるんだと言って、電波高校に進学することを心に決め母親に告げた。
一方、親父は、娘の旦那さんが医者ということも有り、私を医者にしたいという強い夢を描いていた。
母親が親父に、普通高校ではなく、電波高校に行きたいといっていることを告げると、猛烈に怒ったという。直接に自分には何も言わなかったが、相当な喧嘩があったようだ。
当時から、自分も頑固だったので、いかに揉めに揉めていようが自分の考えに変わりは無かった。
結局、中学の担任が仲介に入り、進路について親父に説得してくれた。
だが、結局親父は自分に、最後まで良いとも悪いとも、何も言わなかった。あんなに頑固で怒りっぽかった親父だが。
春爛漫、桜が咲き誇っていた中、電波高校の入学式に、親父は黙って西戸崎まで車で送ってくれた。その他にも父兄同伴はいたんだが、車で来たのは我家だけだったんではなかろうか。
”恥ずかしいからもういいよ”、子供の言葉と言うのは冷たいものだ。どんな気持ちで受け止めていたんだろうか。校庭の陰でひっそりと入学式を見ていたのだろうか。帰り道を一緒に車で帰ったか記憶がない。
発明家を自認する親父にとって、息子が無線と言う世界に入っていくのもまんざらではなかったんだろう。親父は電気にも興味があったんだろうが、知識は全くなかった。いつだったか、”俺は神田の電気学校に行きたかったんだ”とふと漏らしたのを覚えている。
電波高校時代は、アマチュア無線部に3年間在籍し、学校ではモールスに明け暮れ、家に帰ってはハムの工作に明け暮れ、過ごしていた。電気や無線に熱中する息子に、親父は何の小言も言ったことはない。
当時のハムの姿は、無線機を自作するのが普通であり、博多の街の電気屋さんで材料を買い込み、休みの日はケースから回路まで工作を行って一日を過ごしていた。
アルミ板を切り刻んでいる時の大きな音に、親父が2階の部屋まで上がってきて、暫く眺めていることもあった。
しかし、親父と言葉を交わすのが嫌だった自分は、殆ど会話も交わさず、黙々と仕事をしていた。
親とは、誠に切ないものだ。