”晴れた空”に想う

昭和21年生まれの自分には、半村良さんの描いた”晴れた空”の戦災孤児たち(昭和20年当時13歳)のような混乱の真っ只中の様子は、殆ど分からない。
多少の記憶にあるのが、小学生の2年生頃だったろうか、当時の韓国との間に”李承晩ライン”と呼ばれる海洋上の規制ラインがあり、福岡の漁船がよく拿捕されるニュースを記憶している。
反面、クラスの中に韓国・朝鮮籍の人達が多く、一緒に授業を受けていたし、仲良く校庭で遊んでいた。家を行き来する仲良しの友人もいた。自分の周りには差別というものは見当たらなかった。
よーく覚えているのは、トラホームという目の患いだと自分が認定されて、毎日のようにガラス棒のようなもので裏瞼に薬を塗られていたことだ。これは嫌だったなー。
博多の街の東側の川沿いには、戦後直ぐに立てられたバラックの街がまだ存在していた。怖い街ということもなく、家が近いせいもあり平気で出入りをしていた。美味い博多うどんを食べさせてくれる店があった。
当時住んでいた妙見から、千代小学校までは子供の足で15分程度のものだったろうか。妙見神社の裏を抜けて、仲良しのM君家の前を通って通っていた。
放課後は、校庭で遊ぶか、東公園の亀山上皇像の小山で遊ぶか、家の前の妙見神社の境内で遊ぶかのいずれかであった。M君とは毎日のように遊んでいた記憶がある。今もM君の所在を尋ねている遥かな親友である。
最近亀山上皇像を尋ねて見たが、そこから見える景色は大きく変貌したが立像されている小山は、昔のままであった。
東公園には、むかし小さな池があり、鮒等を釣っていた。またバレーボールのコートが出来たり、武道館のような剣道場もあった。時折、サーカス小屋も建ち、そんな時は大きな賑わいを見せていた。
妙見神社の境内には、立派な藤棚があり綺麗な花と香りで楽しまさせてくれた。近所の仲間と缶蹴りや、野球
をしていた。
そんな妙見神社も、最早朽ち果てており、神社の社こそ残っていたが、廻りの小さな御堂(よくここで隠れんぼしていた)やM君の家に通じる脇の小道はマンション建設で塞がれていた。
学校帰りのこの小道でトイレが間に合わず漏らしてしまい、大層祖母に叱られ、家の土間で裸にされポンプの井戸水をかけられて洗われたことも強い記憶が残っている。いまだにそのような夢を見る。

丁度小学校4年生から、家の事情で平尾小学校に転校した。それからM君とは会うことがなくなり、いまだに会えていない。妙見神社の近くを訪ねるのも、自分の故郷を訪ねることにあわせ、M君との出会いを想っているのかもしれない。M君は当時から非常に成績が良かったので、時折ネットでも露出されていないかと想って探索している。

自分は、親父の商売の繁栄や衰退にあわせて、福岡にいる間に都合10回の引越しをしている。その傾向は東京に出てきても続き、東京でも8回の引越しをした。
福岡では、妙見、吉塚の裏の方、薬院、土居町、平和町平和町の下、藤崎、六月田、井尻、井尻の奥の方。
東京では、下井草、下井草の奥の方、荻窪、葛西、高尾、所沢、八柱、志津。
はっきり言って引越しは得意である。だが、もうしたくない。そんな思いで現在の家を買ったんだ。志津に来てもう27年になろうとしている。東京での故郷はここである。だが、真の故郷は、博多なんだ。転々としたけれど、思いは博多に残されている。刻まれている。