うららかな陽だまりの陰に

久し振りに、天気のよい、のんびりとした休日を過ごしている。散歩がてら、昼食を買いに表に出ると、柔らかな日差しに近隣の家の庭には、色とりどりの花が咲いている。
押し詰まった社会環境の中、息を殺して潜んでいるような悪魔との戦いに備えて、あるいは既に猛烈な激戦をしている人々にも、この穏やかな日差しは届いているのだろうか。
バス通りに出ると、丁度お昼の時間のせいだろうか、通る車もなく、歩く人も見受けられない。団地の人は皆、団欒を囲んでいるのだろう。
犬は大きな欠伸をし、小鳥はチッチと会話している。


この多いなる幸せも、これを不幸と感じる他の誰かにも、同じ環境は設えられている。
自分は、どんな苦労があろうとも、この訪れている穏やかな現象を、いつも暖かく受止められる心の持ちようでいたいと思う。
いま、十数年ほど前に自分を襲った環境を思い出す。それは、それまでの幸運に恵まれた日々を過ごしてきた人生への、突然の決別の時だった。業績悪化の真っ只中、古き仲間に退職勧告をし、給与カットを行い、裏切りと裏切られに多くの血を流し全員が泥まみれになり、自分の行く末に怯えていた。繰り返されるM&A。ある日忽然と反対陣営により窓際に追いやられる。何もしてはならないという屈辱に耐えることが出来ず、またこのままでは終わりたくも無いという思いで、辞任し、一年間の浪人生活を送ることになった。
その一年間は、何をしていたのだろう。復帰するために、何糞という思いで本を書いていたことだけは記憶にあるが、それ以外の生活は全く覚えていない。収入も全くなく、きっと鬼のような顔をして、暗い毎日を送っていたんだろう。
そんなときにもきっと、今日のような穏やかな、うららかな日は訪れていたんだろうな。
そしていま、叫び伝えたいことがある。だがそれは文字ではなく、言葉と心で伝えよう。それがいまの幸せを作ってくれた人々への恩返しであろう。


人が生きるとは、自分が、自分そのものが生きていくことである。決して他人として生きているわけではない。仲間と生きていても、全体が生を持っているわけではない。
自分の知覚が、自分の命が、生きて感じているのだ。そして屈辱も味わい、朽ち果てるのも自分の命である。傍観者のようにいることはできない。
勿論、一人では生きられるはずもなく、社会の多くの人々の恩恵を受けて生きていることは、自明のこととして受け入れた上の話だ。
今ある境遇が突然破壊されるなど、暖かい環境にいるときには決して想像できないことであろう。逆に冷たい環境に長く居続けると、自分の人生が好転するとも思えないだろう。
決然と自分に立ち向かい、自分一人で難局に立ち向かわなければ、何一つ克服できないのだ。その決意と実行があってこそ、仲間と共にあることができる。
驚くような事態が訪れても、慣性に流されて直ちにその深刻さを実感できない。そして何とかなるという思いは、哀れなことに微塵に打ち壊される。
そしていまもう一度言う。叫び伝えたいことがある。だがそれは文字ではなく、言葉と心で伝えよう。それがいまの幸せを作ってくれた人々への恩返しであろう。と。
うららかな陽だまりに溺れて死ぬことがないように、自戒をこめて。