激論

きょうは、かなりの激論。いつもは話の結末が同じ点なので、互いに面白くないと言い合っていたのだが、きょうは真っ向勝負を仕掛けられた。
自分は、体調も良くないことは多少の影響もあるのだろうが、えらく反論をしてしまった。
グーグルの一件で、中国かアメリカか、という所から始まった議論だが、なんだかイライラしているのか自分が感情的になってしまった。自分はアメリカ擁護の立場だったが、本当はそのどちらでもよく、そしてどちらでもなかった。
”永遠のゼロ”を読み始めて、すごく自分が揺らされている。その気持ちが、ものすごくきょうの自分の意見を左右しているのだろう。


本当は議論なんかしたくなかったんだ。結末なんてどうでもいいのだから。
人間に真理などあろう筈がない。確かに倫理や行くべき道はあろうが、ほとんどの人がたどれない倫理や道は何の役にも立たない。
例えば、戦争はあってはならない。そんなことは誰もがわかっている。けれど永い人類の歴史の中で戦争はなくなったことはなく、いまも局地的に戦争は継続している。
それを、言葉だけで戦争はあってはならないといわれて、その理屈を言われても、その次の言葉が信じられない。議論することは、平和の象徴であるが、そこには真実味はない。命がけではないのだから。戦場では、否応なく戦っている兵士がいる。失いたくない命を掛けて戦っている兵士がいる。現実とはそんなものではなかろうか。だから、言葉だけで理想を語りたくはない。特に命に関することは。
また、戦後の教育は間違っている、といわれても、それは認めるが、戦前の教育が正しいと認めることはできない。かつて幾つの戦前と戦後があったのか、分かっているのだろうか。
人間は、愚かな反復を繰り返す動物なんだろう。果たして、螺旋状に少しでも高度になっているのだろうか。
原始時代に較べ一人一人が直面する殺戮の回数は減っても、近代になるほど殺戮の方法は残虐に、高度に効率的になっているだけのことではないだろうか。


”永遠のゼロ”は、自分を問うている。
兵士は屑のように死んでいく。高級参謀は屍を積み上げていく。兵士は国のために戦うことを金科玉条の如く信念に刻み込み、そして特攻を誇りに思う。命は捧げるものと決まっており反するものは非国民である。
一方、敵はといえば、命を守るために物量で効率を考えた戦略で向かってくる。そして、
そして、勝つことが戦争なのだった。
そういえば、精神論は我々のお得意のところだったな。勿論気構えは大事だ。だが無謀に片道切符の特攻はないだろうな。どう考えてもないだろうな。
今の若者は、といわれれば、戦争なんて行かない、で終わってしまうところだろうが、行かねばならない時は行かねばならない。しかし、嫌で嫌でありつつも、戦ったあげくに死ぬ時は仕方がないが、戦う前から生還する道なく行くのは、また行かせるのは、人の驕り以外の何者でもない。

本日、チリジリに乱れ、のちに修正あり。


”永遠のゼロ”は、生きる矜持を自分に問いただしてくれている。きょうの朝の電車でも涙こみ上げ頁を閉じてしまった。これで2度目だ。