漂流する心

疲れた。一日中、ネゴに格闘したといってよいだろう。本当に疲れた。
何故こんなに疲れるのだろう。
それは、自分を舫う場所がわからなくなった時。
努力することに何のためらいもない。身を捧げることに何の苦痛もなかろう。
だが、自分の居場所が分からなくなった時の虚脱感、虚しさ。これは辛い。
何のために、誰のために。
心は決めているつもりだが、きょうのように、ふと訪れるこの虚しさ。
一日中、虚勢を張って、心繋げない中に一人奮戦し。
自分を舫っている、綱の先が見えなくなったとき。
大海を漂流している不確かな自分に気づく。
こんな弱い気分になることはめったにないが、それだけにこの瞬間は辛い。
助け舟が欲しいわけではない。
確実に繋がれているという安定が欲しいのだろう。
考えてみれば、毎日を過ごす中に、僅かな、本当に僅かな、心の繋がりを歓びとして、また生甲斐として生きているのだろう。
だからこそ、その舫い綱の先が、何処にも繋ぎ止められていないと不安を感じた時、大きな心の揺れが始まる。
何かが起こったわけではない。
だが何も起こらないことに虚しさを感じるのかもしれない。
寂しいがゆえに、弱いがゆえに、人の心を求めるのだろう。心の綱を求めるのだろう。
自分は、自分が弱い人間だと思っている。
権力が備わっているから、それなりに周りを動かすことはできよう。
だがそれに気がついた時の虚しさも、倍返しとなって襲ってくる。
仮面を被った人々を、信念で説き伏せていく虚しさは、自分に絶望を感じさせる時がある。
権力に迎合せざるを得ない相手の弱さに、哀れみ以上に、悲しい愛情までも感じてしまう。こうなるともう仕事はできない。
逆に、繋がれていると信じている者への、鈍感さ無神経さに怒りを感じることもある。
喧騒の中の一人から、真の独りになったとき、大声で叫びたくなる。