父母を想い 我を振り返る そして しみじみとした一日が 暮れて往く。

おはようございます。快晴です。
9時起床。気持ちの良い朝ですね。
今日は、父親の命日でお墓参りを午前中に済ますつもりです。親父は一生92歳まで自称発明家としてほぼ全うしたが、もう逝ってしまって10年になります。現在の新しい会社に転職してすぐのことでしたから強く記憶に残っています。最後の数年はアルツハイマーなんでしょうか、徘徊もするようになり義兄の顔も連れ合いの顔も忘れてしまいビックリしたものです。この先どうなる事かと苦悩を味わいました。
いまは穏やかな顔をして、天上で何かを創り出しているのでしょうねきっと。神様達に迷惑をかけてないといいのですが。
自分の血のなかにもフロンティアの精神が流れているのは、親父の血だなと強く思って感謝しています。少し薄めた方がいいのかもとも。


お墓参りの後は、クラブに顔を出してその後CDレンタルショップかな。
今日も一日、のんびりと過ごすつもりです。
明日からは、遠出となり、来週のために緊張する資料まとめを行うことになります。


昨日の車中読書は、行きに”白石一文”さんの”龍の・・・”を読了。一気に読んでしまった白石さんは、久しぶりだったが男女の心の紡ぎ合いの物語が流石だな。思い重ねてみれば激しくもまた切なく。
この本と、”中原の虹”は早速相棒にスル―だ。


16時50分現在。帰宅しました。
お昼から、お墓参りに出かけました。水曜日が霊園のお休みだということも知らず。
いつものように霊園の事務所でお花を買うつもりで訪ねると、”山崎製パン”の明日の大きな行事の仕込みの日で、たまたま門を開けているとのこと。霊園のなかに大きな会社用の墓地があり、秋には行事があるという。大きなテントが張ってある。
お花も、これまた、たまたまあって助かった。
天気はよく温かくもあり、のんびりとお墓参りをすることができた。
思いだすな。東京に出てきたころを。
杉並の下井草というところのアパートが最初の東京での住居だった。下井草では都合2回引っ越しをしたな。大学を出るまでの4年間はこの街で過ごした。下井草1,2,3のあとは、何処に行ったんだろう。西葛西、高尾、千葉の五香、埼玉?の清瀬、千葉の佐倉(現在地を購入)と転々としてきた。
これもいい経験といえばそうなんだろうが、親父の発明家としての我儘が母を苦しめたと思っている。しかしよくもまあ生活できてきたことよ。発明一本やりでも細々と生きてこれたのだから。
けれど小さなころから、このような転々とする生活は嫌いだった。ようやく、現在地に居を構えることになった途端に母は逝ってしまった。今日もお墓の前で、親父には愚痴を、母親には悔いを述べてきた。
しかし、ともあれもう2人とも天上の人。我らを見守ってくれるようにお願いをした。


お墓参りののち、余りに空がきれいなために近くの公園に行って散歩をした。小さな池の周りに回廊があり鯉や鴨が居る。
芝の上に寝っ転がり空を見上げると、薄いブルーの色がとても綺麗だった。夏のギラギラとした群青の空とは違う。
透き通るような空を見ると、小さな白い点々が一杯動き回っている。恐らく網膜の異常だろうな。だんだん体が壊れてきているんだ。しっかり現実を受け止めなければと思う。
相棒のお母さんは69歳で逝ってしまわれたという。自分の身に置き換えればあと僅か。どう生き終えるかが課題だろう。
この数日しみじみとしている。
相棒には、自分の我儘を押し通して、きっと大迷惑だったろうな。
そしてまだ、しみじみが続いている。
母を失ってから、父も自分も大きく変わったと思う。父は憑り付かれたように頑なになっていったし、自分は悔恨の気持ちに覆われ続けていまに至っている。その時以来、自分の気持ちは率直に表すようにしている。明日はもう会えないかもしれないから。


19時20分現在。斉藤和義さん。
ツタヤからCDを借りてきた。斉藤和義さんの”歌うたい15”だ。もちろん”歌うたいのバラッド”が入っているもの。よく見ると”ウエディング・ソング”も入っていた。だが”いまでも好きだ”は何処を探してもない。諦めて帰ってきた。早速PCに入れました。
You Tubeに上がっていた弾き語りバージョンを参考までにリンクします。聴き惚れました。
http://www.youtube.com/watch?v=alaZzDxxQAM&feature=related


21時10分現在。明日は早いから。
そろそろ今日は終わろうかな。
歌うたいのバラッド”をずっと聴いている。なんだか悲しくなってくる。
人の生や死を身近にすると、なおさらこのような思いに囚われるのかもしれない。
公園の散歩中に、若い夫婦が子供を連れて遊んでいる光景を多く目にした。非常に寂しい思いがした。私達には子供が居ない。既に乗り越えた気持ちではあるが、襲ってくる寂しさは遠慮はなく、また防ぎようもない。
最近、大きな娘や息子がいるではないかと、気持ちを変えることにしている。実際、大切に思う心に決めている人々が娘であり息子であろう。
そう思えば、気分はすっとする。気丈になれる。元気が出る。頑張ろうと。
今日のしみじみは、もう明日には残さない。
明日はまた早いんだ。