明治生まれの親父は、第二次世界大戦に召集され陸軍の戦車部隊に配属されましたが、戦地に赴くことなく終戦となったと聞きました。
そして戦後直ぐに、博多の妙見という地で自転車屋を開業したのです。自転車屋を始めるキッカケや経緯は不明です。何故パン屋で培った技術を活かさなかったのか不思議です。終戦後直ぐに人々がパンなどのハイカラな食べ物に目が向かなかったのかもしれません。
年を経て老いた時にふと、俺のパン焼きの技術は一級品だと自慢をして、パン屋を始めようとしたことがありました。慌てて止めようとしましたが、止まるはずもなく家には大きなガスオーブンが備えられてしまいました。
ともかくも、自転車屋は大変に繁盛したようです。私はちょうど昭和二十一年生まれですから、この繁盛の中で幼少を過ごしました。繁盛していた記憶は、従業員が何人もいた風景が私の中に存在しています。しかし、当時は豪邸などに住んでいた記憶はありません。
妙見という市電の停留所前に大きな店舗を構え、自宅はその向かい側の妙見神社の境内と隣り合わせた、普通の二階建ての家屋でした。併せて四部屋ほどの居室があったように覚えています。そうそうタマという猫が一匹居りました。店舗の方は、一階がショールーム兼組み立て修理場所で、二階が事務所と部品倉庫、それに従業員の居住場所がありました。この妙見の場所だけは、私の記憶の中に白黒写真のように強く残っておりました。しかし、その住居には、私は祖母と生活しており、どうしたことか親父や母と住んでいた記憶がないのです。


自転車屋の勢いは、店舗はそのままでオートバイ屋にまで発展していきました。妙見神社の境内で、新型のオートバイに乗せてもらったり、いま築地の中で走り回っている荷運び用の三輪車も当時からあり面白い格好の自動車だなと思っておりました。
私は、この時代の親父についてはほとんど記憶がありません。店舗の二階の倉庫で私が珍しい部品を何かに見立てて遊んでいるときに、事務所に見かける親父の姿か、古いアルバムに貼ってある博多山笠の装束で親父に抱かれている写真の記憶でしかありません。
ただただ怖い親父で、傍に寄れなかった思い出だけしかありません。しかし何故怖かったのかも、印象にありません。ひたすら呆けていた子供だったのでしょう。
親父は、どの様にして店を大きくしていったのでしょうか。営業力に優れたものを持っていたのでしょうか、それとも手先は非常に器用でしたから、技術力で信用をつけていったのでしょうか。
この時代、小学校四年生まで、妙見神社の境内の藤棚の下で、近所の子供たちとよく遊んでいました。缶蹴りや三角ベースボールや相撲遊びで夕暮れまでを過ごしていました。相撲では栃錦若乃花の時代で、ラジオも良く聞いておりました。
当時、最も仲の良かったM君とは家族中で付き合いをしていました。M君の家は妙見神社の裏にあり、すぐ近所でした。M君とは後にまた出会うことになるのですが、当時から非常に成績が良く修猷館、阪大と進んだそうです。


オートバイ屋でも儲かったのでしょう、親父はその資金を元に自動車屋を始めることになりました。場所は薬院というところでした。川沿いのとても広い敷地に、ショールーム付の販売店を構えました。その移転のために、私は小学4年生の時に千代町小学校から平尾小学校に転校しました。
その薬院の家は二階が住居で、親戚の娘さんがお手伝いさんに入り、従業員は恐らく自転車屋のメンバーだったと思います。
当時の私は未だ呆けておりました。転校した小学校の新しい友人と毎日遊び呆けていた記憶しかなく、家の状況など全く知る由もありませんでした。