10.下地

文書や資料の標準化を仕事と任命されたが、吉田は元より文章を書くなど全くの不得意としていた。ただ、これまで電気電子を学び続けてきた根本にある、理屈や科学については、分かりやすさに対する憧れを持っていたように思える。
当面の仕事は、ソフトウエア会社としての開発成果物をどのようにパッケージ化して納品物とし、後々のメンテナンスにも役立つ資料となるかを、具体的なフォーマットや書式として整えるかという役割だった。会社にはこれまでの経験則によるフォーマットがあるだけであり、内容の表記には個々人のプログラマー独自の勝手な表現に委ねられていた。未だ混沌としていた時代だったのだ。
吉田は、自分でプログラムを組むことができなかったので、その表記をどう標準化するかについては力の及ぶところではなかった。ある意味外形的な部分についてまとめができた程度だった。
一方、技術資料としての書籍や論文を小さな資料室にどう分類し配架するかにも取り組んでいた。これは図書館学という一つの確立された分野があり勉強さえすれば、実際の貸出や検索などの運用を行うことができた。
会社のソフトウエア受託業務の仕事は大変忙しくなり、プログラマー達の泊まり込みは常態化していた。同時に、プログラムを組み進めることに追われ、フローチャートなどの記述は後回しされていった。一旦バグが出て障害が大きくなり始めて、チームで対処するために少なくともフローチャートは最小限必要なものとなり、メモでもいいから各自作成し、吉田がそれをわかりやすく清書する役割となった。これはかなり勉強になった。
優秀なプログラマーとそうでないプログラマーの差が歴然とわかったからだ。あるプロジェクトでは、米国帰りのプログラマーがリーダーを務める大きなプロジェクトが納品間際にトラブルに見舞われた。吉田はリーダーの自由が丘にある家に3ヶ月ほど通い、フローチャートの清書をさせられた。リーダーは深夜に、メモ書きを起こし、吉田への指示書を作り、朝には現場に出て行った。吉田は、出勤時間である9時にリーダーの家に勝手に上がり、指示とメモによりA3のトレーシングペーパーに次々と清書していった。
リーダーのメモフローチャートは、吉田が分かりやすくする必要がないほどだった。時折、吉田なりの工夫を凝らした配置をしたり表現を変えたりすると、翌日の指示に、その工夫の評価がなされていた。ほとんど顔を合わすことのなかったリーダーであったが、吉田は、以降どんな人と相対するにあたっても、遠慮なく工夫を伝えることが大事だということをここで学んだ。