11. 下地

月曜日から土曜日まで毎日、ただ一人で自由が丘のリーダーの家に通い、ただ一人広い部屋で黙々とフローチャートの清書をして数ヶ月、吉田啓吾は清書とはいえ綺麗に分かりやすくするために工夫することは多数あるのだ、と確信した。
この仕事から解放されたのちに、リーダーから陰ながらの高評価を得て、新しい仕事が加えられた。
それは会社の顧問をしている先生から持ち込まれた話しだった。当時、マイクロプロセッサーが発明され、その組み立てキットも日本で発売されて、いよいよマイクロコンピューター時代が到来するという時流の中、先生にマイクロコンピューターの解説記事を連載しないかという話が持ち込まれたのだ。符合して同じタイミングで会社の社長からも、そのキットを購入して社として取り組めと言う指令が出ていた。
社の幹部は、誰に担当させようかと検討した結果、時間に余裕のある、そして大学でコンピューターを学んだあろう吉田を選んだ。他の技術者は、日常からコンピューターに取り組んでいるために、マイクロコンピューターをオモチャとしか見えないらしくて、誰も希望しなかったともあとで聞いた。
吉田は、コンピューターへの食わず嫌いを払拭するいい機会でもあり、その解説記事を書くことを喜んで受け入れた。ただ、全く知識が無く、自分に書けるのだろうかという相当なプレッシャーは感じていた。しかし、このレベルから分かるように書くことができれば、誰にも理解できるはずだという、逆説的な自信もあった。社からは、好条件も示された。NECから発売されたTK80と言うキットを購入し実験し、色々なセミナーにも自由に参加して良い、数ヶ月は専任して自由に活動しろというものだった。今から考えれば、信じられない話である。
雑誌原稿は、当面一年間、12頁を毎月掲載するというものであった。結局、好評の元に4年間連載することになった。