20.書くということ

私は30代前半で、恩師から書くチャンスを与えられ、もう40年になります。恩師は、原稿を書く姿を見せてくれました。その流派を受け継いだのです。恩師は当時に既に何百冊もの著書を出されていて、最初は雑誌の連載から指導を受けました。指導と言っても、書き方を教わるわけではありません。書き方は恩師の姿から学び、見よう見まねで書いた原稿には恩師の赤字が沢山入って戻ってくるのです。


ー素材が命
雑誌連載から原稿書きを学んだ私ですが、恩師から学んだ最大のことは素材を日々創りだせ、と言うことでした。
雑誌の原稿も毎月相当のページ数でしたので、締め切り前の二日間はほぼ徹夜状態でした。
ただ毎日、関係雑誌や新聞、恩師の単行本や他の連載などをコピーしてそれに自分のオリジナルな解釈を加えて素材化していましたので、その素材群から関係するものを抜き出し、説明の順に並べ原稿化していきました。
その素材は、一度使ったらもう使えないということはありません。そしてまた、出来上がった連載当月号の原稿も、発売されれば、活字となった我が素材の一部となるわけです。


ー一石三鳥の発想
恩師は、こう教えてくれました。どんな原稿も大事にしろと。一石三鳥だからな、とも。
この意味は、その連載が目出度く期間大延長の元に終わり、別の出版社から単行本にしないかという話が来たのです。恩師は、どうだこれで一石三鳥だろう、と言いましたが、もう一羽たりません。
最後は、これで講演できるんだよ、と恩師はセミナー開催の案内を私に渡してくれたのです。
毎日の溜めた素材は、連載の糧となり、長く続けば単行本となって形を変える。さらにはそれをテキストとしてセミナーや講演会を企画できる、と言うわけです。


ー手を上げて新たな場面を創ってみる
恩師とのタッグマッチで共著の数も増えて行った時、ラジオでの講座の話が来ました。テキストの制作と番組での講師依頼です。もうこの頃には原稿書きはお手の物でしたが、長期間にわたる講座の講師、特にラジオなんてメディアは初めてでした。
恩師に提案しました。恩師は既にラジオ講座はいくつも経験があったようなので、また胸を借りるつもりで、私が台本を書いてもいいでしょうか、と。恩師は、台本なんて書いたことがあるのか、と尋ねられましたので、堂々と、いや全く初めてですが、と答えました。
こうやって、恩師の了解を取り、収録当日スタジオに2時間前に入り一心不乱に原稿用紙に書き殴りました。何故こんな短い時間で台本が書けるのかって、それはテキストは私が作っているのですから。
恩師はその台本通りに進行してくれ、収録が終わってから、このままずーっと頼むよ、と託されました。
だんだん慣れてくると、収録日に会社からスタジオに向かうタクシーの中で書けるようになりました。およそ正味収録時間は15分程度のものでしたので、精々10枚程度の原稿ですが、自分の話の部分は書かなくて言い訳ですから割と短い時間で準備ができました。
この講座の後、今度は恩師に資格講座でアナログ3種講座をやって見ないかと誘われました。テキストは私が作ったものではありません。しかし、電子工学分野は昔取った杵柄です。今度はテキストを深く理解しながら、演習問題も自分で解き、一日をかけて台本を作成したのです。この講座も2年続きました。


ここでの提案は、一歩未知の冒険を自ら背負ってみませんか、と言うことです。