脳死

昨日の続きのようなコメントである。
昨年、生まれて初めて6時間に渡る全身麻酔での手術を受けた。非常なる不安を抱きながらの手術前の一夜であった。朝一番の、8時くらいからの手術だった。朝に何かをためらわせる時間のまもなく手術室行きの台車に乗せられていくとき、不安を感じる間も無い、ただ慌しいばかりの時間は、考えることをさせず見事としか言うこと無い段取りだった。本当にただ運ばれていくしかなかった切迫感だ。
麻酔を注入しまーす、という声が終わると直ちに、意識は空白となった。夢も何も見ず、ただ10分ほど寝たかなというような、本当に真っ白な空白だった。自分の名前を2度ほど呼ばれただろうか。ぱっと目が覚めた。気持ちのよい目覚めだった。6時間経ったという。驚きだった。
何を言いたいか。
死とは何も無いんだな。あれほどの長時間、何も無いということは、死とは本当に何も無いんだなということだ。これもいいのかもしれない。笑い話のようだが、一生死んでいるのだ。しかし、そこに介在する時間は全く無いが、本当に空白なんだが、そこに時間が無いということは充分に想像できた。
逆に、脳がどんな障害を抱えていようと、極めて一部の組織が電気的活動や、細胞活動を一部で行っていれば、夢なり、思考なりが存在するのではないか思うのだ。それが他の臓器の障害から切り離されていれば、具体的な苦しみや痛みも無く、夢としての苦しみや痛みはあるのであろうが、生き永らえて行けるのではないだろうか。
脳に流れる血流が微小であったりゆっくりだったとすれば、ひょっとすると時間は大層ゆっくり流れているのかもしれない。でももう現実の時間などは全く関係が無い。そこは自分だけの時間であり、夢の中だけの世界であり現実の世界との時間の同期などは必要も無い。
こんなことを考えていると、脳だけの保存で生命を永らえる方法ということもありうるのではないかと思わせられる。他の臓器が必要な人には、存分に臓器が供給でき分け与えられ、臓器の障害による現実の世界での充分なる生存は更に進化し、老化とともに生命を全うしようとする段階に入ると脳だけの生存による精神的生存が保たれる。そんな時代が来るのではないか。
今の脳死と臓器提供で盛んに議論されていることは逆に、脳を生かすための臓器が切り離される。
どこかSFの世界のようだが、一生夢だけで過ごせる世界は、孤独ではあるが、意識は連続し、過去の記憶がある範囲だけではあるが、充分にその中で楽しめる一生が送れるののではなかろうか。
これはあくまで、少々の焼酎のお湯割りの酔いの世界で考えたことではなく、これまで数十年間考え続けてきたことであり、手術を受けたことによる脳の停止による空白で、その考えが補強できたことからコメントしたものである。