心の始末

3日ぶりのコメントだ。
60歳にもなると自分の心の変化に気づく。これまで会社の中でも、社外の活動においても自ら旗を振って中心的な存在として走ってきた思いがある。小さいながらも会社組織の中でいつもその中枢というか本流にいて、毎日を誇りに思ってきた自分がいた。そうやって社会に出てからひたすら35年ほど過ごしてきたわけだ。
その35年の中に、特に後半には驚くような環境の変化もあり、M&Aを受けたり、逆に落下傘部隊として降って降りたり、まさに激動の後半の10年だったといえよう。だが幸せだったと思っているし恵まれてもいたと思っている。
しかし、このことは今日の主題ではない。
今日の主題は、そうやって先頭を切って走ってきたのに、突然思いもよらない病気になり、はたまた60という人生の節目を向かえ、後進に道を譲らねばならない年齢となり、追い越し車線ではなく追い越され車線を走らねばならなくなってきたことについて、自分の心とのギャップに時々衝突してしまうことについて述べたい。
友人に話してみると、友人も同じように感じるという。
友人は、今までいわば代表的な企業戦士であり、ある意味家庭も忘れて没頭してきた会社人間だった。だが、最近はもう役職定年となり、後輩に役職を譲り、逆に使われる立場となっているという。そろそろ退職についても考えなければならない。競争心むき出しで来た自分が、何か挫折感を感じるのだ。
わたしの心の始末は、同じようにここから始まるのだ。仕事をしていて、次代を担う年若のキーマンに指示を仰ぐとき、普段は何も無いのだがふっと寂しさや無念さが心よぎるのだ。なんだろう。敗北を感じている自分がそこにいるのだ。挫折を感じている自分が見えるのだ。
しかし、もう一人の心の中では後進に道を譲り、後進を立てていくということについて当たり前のことだと本心思っている自分がいる。
この心の始末が困るのだ。だからといって、ねじ伏せたくも無い。
そっとしていれば、理性が元に戻してくれるのだが。
納まりがつかない間は妙に寂しい時間を過ごすことになる。きっと時間が解決してくれるのだろうな。
新たな終末に向かうべき道を見つける必要があるのだろうな。終末といえば暗すぎるが、老後?引退後?、どんな言葉を使えばいいのだろうか。
団塊の世代は競争心を常に身に着けて走ってきたので、特に心の葛藤が起きるのかもしれない。
人生のクールダウン段階には競争は不要だということを身体でわかる必要があるのだろうな。
男の更年期障害でもあるのかもしれない。