仲間

22時15分現在。今日は今年最後の勤務。納会もTV会議3元中継でかなりの賑わいを見せまして、最後の抽選会で自分に何か当たっていたようだ。37インチの液晶テレビでないことが悔やまれる。
納会には、クリエータO氏も参加し、金粉入り日本酒1升を頂いてしまい、あっという間に空となり、どれだけ皆さん飲むんでしょう。おつまみは、若い人向けにフライやソーセージ。これもなかなかに美味くお腹は一杯胸いっぱい、だーって私は納会してるんだもん。
さて、ここからがポイントでありまする。今日はジーンときてしまいました。誰ともなしにカラオケだと言うことになり、そうと決まれば納会を手際よく切り上げ、パッパッと散らかした飲みがら食べがらを片付け、カラオケハウスに行きました。
最後は、仕事を終えたメンバーが随時参加し、総勢11名で歌合戦。しかし皆歌が上手い。この年になると、自分で歌うより、人の歌を聞いているほうが、やや、楽しい。ややっ。
若いっていいなー。それ以上に、こうして肩を組んで合唱する仲間があるっていいなー。そんなことを感じると、もうジーンときてしまう。
みな、気を使ったり、おべんちゃらで付き合っていないことは充分に判る。自分はフリーで生きてきた事は、50歳の時の約一年間の浪人時代だけだったが、このような肩を組んで和気あいあいとなれるのは、組織にいるから味わえることだと思う。いつも自分の周りには、力強い、優しい、仕事のできる仲間が一杯だった。場面場面では仲間が違うけれど、こんな仲間と一緒に、仕事が出来て、心許せて、なんと幸せなことだろうか。
そんなことを思うと、もう感情は止まらない。
姉は今回助かったが、人は何時絶望の淵にたたされたり、死と直面したりするかわからない。一瞬一瞬の幸せこそ大事に出来なくて、何が幸せと呼べるのだろうか。
まとまった幸せなどあるわけではない、時間が長いか短いかは幸せの量や質には関係がない。いつも幸せを感じて感謝できることが、幸せのエンジンであろう。そうしてその燃料は、喜びの涙であろうか、はたまた共に働く汗であろうか。
最後に、皆で、長淵剛さんの”乾杯”を、何度も乾杯しながら、合唱する姿を見るだけで胸が一杯になってきた。ひょっとすれば、明日は、それぞれが違う道を歩き始めたり、自分のように病に伏したり、袂を別ったりする。けれどもいいじゃないか。
人間、交わりの一瞬を、それがすれ違いの一瞬であっても、その瞬間は、長いも短いもなく永遠の絆ではなかろうか。心を開き、目をしっかりと見つめ、強く語り合い、今日のように歌を唄い、肩を組み、悲しみを伝え、喜びに震え、怒りをぶつけ、寂しいとはっきり言おうではないか。
明日はこないかもしれない。思い出だけに浸ることなく、今この瞬間に出来ることをできる限りやろうではないか。明日が来ればそれで善し、また絆も深まろう。それでよいではないか。明日は明日のこと。今日は生きている現実が今日のことである。昨日は既に立ち去ってしまったんだ。
唄いながら、そんなことを思い巡らした、いままでで一番の納会であった。
自分の幸せに、乾杯。仲間の幸せに乾杯。家族に有難う。