親父の発明品

今日はお盆の入りだ。仕事に追われて、連れ合いに言われるまで、すっかり忘れていた。
親父もお袋も既に墓に入って久しい。母親はもう亡くなってから20年以上になる。
毎朝仏壇に向かって、見守っていただいている御礼と、縁者仲間達の今日の健康と幸せを祈願している。
親父も生きているときは、朝必ず仏壇に手を合わせて、長いこと座っていたな。その頃仏壇は、親父の部屋にあり、自分が拝むのはそれこそお彼岸やお盆、また命日の時くらいしかなかった。
親父が亡くなってから、自分達が毎日拝むことができるように仏壇を移動したんだ。
それから毎日、出勤している日は、その朝に手を合わせている。

しばらく親父について書くことに時間が経ってしまった。今日は、親父の発明品について思い出を記しておきたい。
折角、福岡で大学に入ったが、いろいろな思いもあって中退し、東京の家族の下で大学に通いたいと思い立ったのは、入学して半年を過ぎた頃だった。祖母が亡くなり、博多にいる思いも何かぷつんと切れてしまったんだろう。
夜のパン屋の仕分けの仕事も辞め上京した。
パン屋での稼ぎで貯金もあったために、自宅や図書館にこもって翌年の大学受験の浪人生活を送っていた。しかし、予備校に通うほどの蓄えではなく、参考書籍を購入し、近くの図書館で昼食をとる半年分くらいの蓄えでしかなかった。家の家計も苦しかったろうに。
翌年の大学受験は、2校ほど受けたが全滅であった。それはそうだろう、工業高校のことでもありいくつかの受験科目について、授業が存在しないのであった。例えば、古文漢文、世界史、物理、英語だったろうか。物理は電気系の科目で置き換わり、英語は通信用の業務用英語であった。古文漢文は置き換わるものはなかった。
そんなことにも無関心で、無謀にも東北と関東の国立大を受け、桜散るであった。東北の国立を受験して東京に帰る日に、富士山麓に旅客機が落ちたことが鮮明に記憶に残っている。
受験した年に貯金もなくなり、生活費を稼ぐために、その春に目黒にある通信機や業務用のテレビカメラやモニターを修理する会社に勤めた。
それまで国家試験受験のために無線関係の知識は同年輩の仲間より遥かな自信を持っていたが、会社の入社試験で全てが電気電子の試験であり好成績だったんだろう、同期に入社する数人の仲間が配線や下働きにまわされたにもかかわらず、自分は修理や性能調整業務にまわされた。
この会社では、それまで使ったことがない、触ったこともない測定器について教えられ、修理や調整の面白さに惹かれてしまった。

丸々1年間その会社で働き、新しい春が来た。大学受験は諦めていたわけではなく、夜の時間に受験勉強を続けていた。昨年の無謀な受験ではなく、習っていない科目も準備怠りなく勉強をした。特に物理は面白かった。というか、まったくの基礎知識がなかったのだから新鮮だったんだろう。
おかげで電機大が救い上げてくれた。晴れて大学生となった。結局2浪したことになる。
1年間の就職で、大学の入学費用と学費は当分賄える情況にあり、今度は親父には迷惑を掛けることはなかった。3年生の後半になり、その貯金も費え、コンピュータの夜間運転業務員として前職に就職し、今度は勤労大学生として全うすることができた。

その大学3年生の頃であったろうか、親父は変わらず発明家として何かを作っては、企業に持込み敗退し、あるいは自分でその事業を始めては苦労していた。
木工も得意な親父だったが、毎日毎日木を削っていた。見るとだんだん歯車のようになってきている。もちろん、横から話しかけると新事業や発明についての説明が始まるので、決して横槍を入れたり関心を示すことはなかった。
ある日、家に来客があった。小さな家だったので話は良く聞こえた。立派な身なりのビジネスマンだったようだ。親父が自分の作った発明品の機械を説明操作していた。
1枚の広い紙を機械の中に差し込む。そうしてハンドルを回すと、紙は吸い込まれていき、機械の一方の端からは、デパートなんかでくれる手提げの紙袋が出てきたのである。
つまり、袋折機械だった。全てが糊付けされ、紐をつけるだけで立派な手提げ袋になっていた。
このお客も大層驚き、”ぜひとも”なんていいながら帰っていった。
数日すると親父が”今度この機械を島根に持っていくからお前も手伝え”と、いった。普段親父の全てを拒否している自分であったが、このときはなぜか着いていく返事をした。
いつものようにおんぼろルノーにて松江まで行くことになった。途中名古屋で親戚のうちに泊まったことは覚えているが、どの様に親父と車の中で過ごしたか、どの様な行程を通ったかは全く記憶にない。
覚えているのは、宍道湖の辺にある高級旅館で豪華なもてなしを受けたことだけ。また、その場が契約の場であったのだろう、100万円と聞いたが、テーブルの上に札束が積まれていた。相手先は**農機だったと思う。当時、自分の大卒初任給が1万円程度ではなかったろうか。
親父の機械が売れたんだ。驚きの記憶がこびり付いて今にある。

それから、親爺殿はますます発明に精を出すことになり、自分との距離も瞬間縮まったものの、大きな溝ができる出発点になったのかもしれない。