4人の父

私には、4人の父親がいる。
とはいえ、父親、義父、父と思い尊敬している2人、のことである。

真の父とは、終生折り合いがつくこともなく、殆ど会話もなく、私からいえば反目しあっていた。
父は若い頃から事業に目覚め、それなりに成功していたんだろう、小学生の低学年までは、我家はそれなりに豊かな生活をしていた。小学生の半ば、薬院の近くで自動車販売会社をしていた時に、学校から帰ってくると家中のあらゆるものに赤紙が貼られていた。いわゆる差し押さえだ。
自宅の1階がショールームと事務所となっており、2階が自宅になっていた。ショールームの上は広いベランダとなっており、よく遊んでいた。
当時、何らかの蓄財はしていたんだろう、それから薬院から程近い六月田というところで、割烹旅館を始めた。だがそれも長くは続かず、段々と財産を減らし、高校生の頃には小さなトタンぶきの小屋のような家に引っ越した。妹と母の3人でリヤカーを引いて引っ越したのを鮮明に覚えている。
それから父は、発明にとり憑かれ、92歳で命を全うするまで発明家として一生を過ごした。偉大な何かを発明したわけではなく、けれど自分が作り出した製品を売って生業としていたのだから、それなりに立派である。
しかし、私はこのように生活で母を苦しめる父が嫌いだった。恨んでもいた。
だが最近になって、自分が父とよく似ていることに気がついている。DNAは争えないものだ。
何か新たな物を創造することに執着する私の根底流れるDNAは、父から受け継いでいるようだ。有り難い事だと思う。私が父に感謝する、唯一無二のものだ。そして、私の全てなのかもしれない。


第2の父は義父だ。
厳しくまた優しい父だった。
何処までも”人としての筋道”を貫く人であった。立派な人であった。
また、戦後すぐにマーケティングや市場統計に道を築いた、偉大な人でもあった。
義父でもあり、前職の社長でもあった。
私は、大学の途中から入社した変則社員であったが、よく可愛がって、育ててくれた。そして途中から私の義父となる縁ができた。
私が、イベントの企画でとんでもないシステムを考案して、当時の博覧会や展示会の受注を受け評価されると、自分のことのように喜んでくれた。
企画部隊長として自由に新規事業に挑戦させてくれた。また数十冊の本をしたためることが出来たのも、義父の御蔭だ。
しかし、時々はこっぴどく叱られることも在り、何週間も口を聞いてもらえないこともあった。
それは、仕事について義父が信念として抱いている、心構えや考え方に違背した時であった。ときどき自己過信に溺れて安直な道を選ぼうとする私を激しく叱った。
義父は、私の僅かな才能の種を見出し育て、開花させてくれた人である。
ただ、晩年は事業の業績に苦しみ、新しい資本家に事業を譲り渡し、葛藤と無念の中に病を得て亡くなってしまった。義父は、私を新しい資本家の下で取締役としての道を残してくれた。
その取締役の職にあるときに、前社長の義父と新社長との間の大きな隔たりと障害が、義父を苦しめ、私も苦しんだ。いまだに許されない私がここにあると思っている。
しかしいま、私がここにあるその全ては、義父の御蔭であることは確かなことだ。


第3の父は、新しい資本家の下に、新しい社長として就任したYさんである。
Yさんは、私に世界を見せてくれた人であった。また、自己流でしか仕事をしてこなかった自分に、オーソドックスな仕事の仕方や一流の仕事の世界を見せてくれた人である。
Yさんの下、前職の会社で新たに取締役として新規事業に取り組んだ。
時はWindows95が誕生した時であり、技術の世界はマルチメディアからインターネットへと大きくシフトしていった。当時、私の技術の焦点は、マルチメディアにのみあったから、インターネットへの世の中の変化を捉えきれず、Yさんが期待する新規事業にもなかなか成果を生むことはできなかった。
Yさんの下で、いろいろな世界の企業とアライアンスを組むその尖兵ということで、アメリカにもオーストラリアにも中国にも行かせて貰った。世界に目を向けることが出来たことは、私の大きな転換点だったと思っている。Yさんに尊敬すべき点は、苦境下に在りながらも、世界観を持って新規事業に投資するベンチャー魂を持ち続け、決してギブアップしなかったことにある。
会社が新たな資本家の所有となったことで、社内には亀裂が広がり、Yさんも裏切られて社長を離れ、私も時間を置かずに会社を去ることになった。
運命の悪戯は、Yさんと義父との間の障害に私が関わる役割であったことであろう。人間としての苦しみを味わった。


第4の父は、Mさんである。
現職の社長であり、歳は同じ学年である。決して、おもねって父と言っている訳ではない。そんなしたたかさは自分にはない。



・・・続く