女心はデジタルで 男心はアナログのよう。

おはようございます。
9時起床。昨夜はとても不思議な夢を見ていたようだ。余りいい目覚めとはいえない。天気は快晴。外の寒さはどうなんだろう。部屋の中はぬくぬくと。
本日の予定は、ひたすら寛ぐばかり。にしたい。
来週は、月曜日と木曜日からの遠出の予定。結構ハードな週となるだろう。


昨夜も書いたが、心の揺れは防ぎようもなく突然に訪れるもの。それを制御することは出来ない。しかし、それをしっかりと受け留め、澱のように溜まっていく己のみっともない姿や葛藤に揺すられる姿を見つめることは、他の人はいざ知らず、自分というものの正体を知ることになる。結局は小さい正体でしかないのだが、そして此の世にただ1人しかいない自分の正体が、一生付き合わなければならない自分の本性が、嫌がおうでも見せつけられる。
自分の場合は、そのことが何かを生む原動力になると信じて、耐えそして戦って、そして見つめているつもりなんだ。
ふと感じたのは、男の心はアナログに近く、女の心はデジタルのよう。ということ。
男はいつまでも、連続した時間の中に行きつ戻りつがあり、女は一つ一つの時間を飛び越えてそこには繋ぐ橋はかかっていない。
”錨を上げよ”はまさに男心のアナログさを表している。
デジタル・アナログの言葉は抽象的すぎるかもしれないな。比喩すれば男心は、同じ延長線上に昨日(あるいは大昔、言いかえればロマン)に戻ることができる。しかし女心は延長線上にない違う昨日がある。ん、余計に分からないかな。自分には感覚がそこにあるのだが、いまいち言葉にはなりにくい。


15時30分現在。”錨を上げよ”読了。
お腹の具合がまだよくなくて本を読んで過ごしていた。
漸く”錨を上げよ”を読了した。これが文学かと怒る人もいるだろう。文学とは何か、これを読むとそんなことはどうでもよくなってしまう。この半月以上、百田尚樹さんと、あるいは主人公の昨田又三と共に暮らしてきた。ぴったりと寄り添って。時には、憤りを感じて。時には哀れを感じて。そしてその影が自分であることに気がついて。ほとんど全ては、生きざまにあるというよりは、自分にとっては男と女の心のあり方、交わり方にある。
ハードカバーで千頁以上の大作だったが、又三さんはまだ30歳を超えたばかり。まだ大阪の何処かで飄々と、そして幾つも純真な気持ちで恋をして行くのだろう。恋は純真であればこそ、激しく相手を求め傷つける。
またどこかで、ひょっこりと又三さんに出会うことだろう。それまで互いに元気で、精いっぱいに生きていようぜ。


20時50分現在。帰宅。
夕方から義兄からもらったチケットで”武士の家計簿”を見てきた。前に義兄が携わった”武士の一分”程の感動はなかったな。ただ、ひたすらに勘定方に徹する精神や矜持は十分に受け止めた。
きょうは、朝からあまり気分はよくなくて、そんなこともあり真正面に向き合えなかったのかもしれない。


21時50分現在。
さあ、もういいだろう。明日はきっとまた新しいことが始まるさ。


朝:生姜蜂蜜トースト、魚肉ソーセージ
昼:豚骨ラーメン
晩:海鮮巻き、根菜の煮物、お吸い物