祖母のケジメもついて、親父や母が東京に変える間際に、親父から、この家は処分することにしたから、お前はここには帰ってこれないが、いいな。と話をした。私には、大学のことで自分の迷いもあったが、この家とは異なることなので、ただ、はいと返事をした。
親父は東京で上手くやれているのだろうか、そんなことも聞く機会がないままに親父と母と別れ、私は、その日にはパン工場で働き始めた。もう大学には全く未練はなかった。
自分の力でこの道をどう切り開いていこうかが私の悩みであったが、光明は見えていなかった。薄らと、私は工学部ではなく別の学びをしたいのかもしれないと思い始めていた。大学での紛争が始まりつつあり、少し思想にかぶれ始めていたのだと思う。哲学科に進みたいとも考え始めていた。
祖母が亡くなってから、私は、大学に通わず、正規の定刻である朝の三時まで働き、ある程度のお金が溜まりはじめた。そして予備校に行くことを決意した。そのために、自分の整理できる物は整理しようと、ギターや自分の無線への記念物であった受信機も質屋に入れた。大したお金にはならなかったが、未練を断ち切るためであった。
寮から博多までバスで予備校に通い始めた。だがビックリすることが待ち構えていた。いまの大学は高校の系列大学であり専門科目の受験で入学していたが、一般の大学には全くそのような道はなく、特に文系を志すには、私のような職業高校では習っていない科目だらけであった。
 予備校では、理数系の科目にしろチンプンカンプンであった。英語は通信用の業務用英語、数学は無線用数学、国語歴史社会についてはまったく科目がなく、理科は電気の専門科目でしかなかった。
 それでも多少の馴染は、数学と物理にあった。ある意味数学は進んでいたのかもしれない。物理は電気電子の応用で考えるしかなかった。結局、文系はあきらめ、予備校では工業系の大学の入試科目に的を絞って勉強した。一方、科目を増やすと授業料も高かったので選択を最小限にする必要があったのだ。勉強は寮では机というものがなく単に二段ベッドが二つ置いてある質素なものだったので、予備校に朝から出かけ、装備してある問題集や参考書等で勉強を続けていた。
 しかし、このような生活にも疲れが出始め、母への郷愁も湧いてきたのだろう、いつしか東京に帰る事を考え始めた。
 そう考え始めると決断が速い。上長に願い出て、切りのいいところで辞めさせてもらう事にした。しかし、夜間の仕事の人は、入れ替わりが激しくて、欠員が補充されるまでの条件付きで辞めることが許された。私の同室の九大の学生も、高校時代の同級生も同室だったが、勉強が続かないと先に辞めていき、学生で賄う先鞭をつけた私には責任があった気がしており、初冬まで夜は働き、目覚めれば予備校に通う生活を続けた。余り苦になる生活ではなかったが、このままいけばいつか自分が破綻するという気がしてならなかった。


 辞める日に世話になった上長や仲間に挨拶をし、自分は近くの懇意にしていた質屋に布団を質入れをして挨拶をしてきた。質屋の親父さんは、質請をする気がされる気がないことは先刻承知なので、餞別を込めて少し高いおまけで引き取ってくれた。私はボストンバッグ一つの身軽さでアサカゼに乗って博多の街を旅立った。
 アサカゼは空いており、三段ベッドの二組の私の部屋は、妙齢のお姉さんと私だけだった。お姉さんは、博多に遊びに来ていたらしく、東京言葉で私に話しかけてくれた。私の言葉は、博多弁というより、アマチュア無線で培った標準語であったが、妙に気取って話をしていた記憶がある。お姉さんは、とても優しくしてくれて、初めて一人で乗った寝台特急の要領を教えてくれ、食堂車でのカレーを御馳走してくれた。
 東京に近づくにつれ、お姉さんは、東京駅から下井草までの行程を教えてくれた。


 東京の下井草の家についたのはお昼頃であったが、親父は遊びに来たと勘違いして、よう来た、いつまでいるとね、と正面から切り出してきたので、私もこれは正直に言うしかないと思い、東京で暮らすことに決めたのでよろしくお願いします。大学も自分には合わなかったので、東京でやり直すつもりにしている。折角授業料を払ってくれた申し訳なかったが、これからは自分で働き大学に通うつもりなので、一緒に住まわせてくれること以外の迷惑を掛けないので同居させてください、と頼み込んだ。
 親父は、腕を組みながら少し考えて、起こる風でもなく、分かった。と言った。
 後で母親に聞いたところでは、自分勝手な奴だ、一緒に暮らすとなると、俺の算段も狂ってくる、と愚痴を言っていたそうだ。
 下井草のアパートは、二間しかないアパートだったので、その一室を妹と二段ベッドで分け合うことにした。両親の部屋が居間でもあった。
 その冬から受験が始まる早春まで、私は受験勉強のために朝から近くの図書館に出かけ、夕方まで受験勉強に徹した。昼食は図書館の売店で菓子パンなどで済ませていた。
 その春の受験は、高望みしたためにことごとく失敗した。東北大学電気通信大学の国立の二つだけを受験した。通学の費用のことも考えてのことだが、考えてみれば何故東北大学だったのだろう。再び生活を一異にすることになるのに。当時、東北大学は電子工学では先端の大学であったが故だったろう。
 まったく、自分の中で生き方をしっかり見つめ直しての受験とは思えなかった。


 受験失敗のショックはあまり深くなく、次の受験に備えることを考えていた。そのためには、私学に通うことも考え一年間働いて受験勉強と貯蓄をすべきだと判断した。私学だったら合格できる自信は持っていた。
新聞の求人欄を見て目黒の興南通信機という会社を受験した。組立工や調整修理工を募集していた。面接と試験があった。試験内容は、これまでに国家試験勉強ばかりをしていたが、ほぼ相当の試験内容だった。私は満点だったと思う。
受験者は多くかったが、結局私を含めて三人が採用された。二人は工業高校を出たばかりの様だった。
出社日には訓示などという行事もなく、十人程度の会社だったので早速全員に紹介された後は、すぐに配属をされ、私は放送局用のテレビカメラの調整に回された。他の二人は機器の組立工に回された。
 私は、これまで実際に送信機などを製作していたので多少の機器の知識はあったが、放送局用の機器の調整等は非常に興味を覚えた。何故なら、放送局に技術者として勤めることが憧れでもあったからだ。
 最先端の測定器、シンクロスコープやスイープジェネレータ等を使うこの経験は、あとに大きく役に立つことになった。
 入社面接時に、翌年大学に進むことは説明していた。社長や幹部は、大学に通いながらここで勤めている人はいるので心配はないと言っていてくれていた。事実、日大山岳部の人や国学院大に通う人もいた。いずれも昼間部の学生だと言っていたが、どの様に通っていたのかまでは聞いていない。
 この勤めは楽しかった。やはり自分は、電子工学が好きなんだなと実感した。
会社の人達からも随分かわいがられたように思う。会社は忙しかったのだろうが、いつも定時に上がらせてくれていた。それで受験勉強は自宅で二段ベッドの下で深夜までしていた。ひたすら問題集を解くだけだったが。