9.勤勉

思えばこの70年間、いやいや大学3年生の時からだから約50年間と言ったほうが良いだろうが、吉田啓吾は勤勉であった。もちろんそれには訳があり、福岡の大学を中退するまでの吉田啓吾は、薄弱で流されやすい意思の青年でしかなかった。ただその意志薄弱の結果、未来の見えない放浪者の入り口を垣間見たことにより勤勉となっただけのことだ。
大学3年生の時に、浪人時代に働き貯めていた貯金を使い果たすことになってしまった。そこで夜はコンピュータオペレーターとして深夜まで働き、日中は大学に通う二重生活を行うことになった。前の大学中退に懲りていたために、今回の夜間勤務で大学をサボることは決してなかった。最小限ではあるが卒業単位は落とすことなく全て取得し、無事に4年で卒業を迎えることができた。
当時より、夜間作業とはいえ正社員になっていた吉田啓吾は、卒業しても他社に転じるなどはせず、そのままの会社にいた。コンピュータ勃興期でもあり、ソフト会社の展望も開けていたし、何より何社も就職試験を受けるなどのことが煩わしかっただけのことかもしれない。


大学を卒業すると、会社は仕事を夜から昼間勤務に変えてくれた。これは何より嬉しかった。
しかし、仕事はといえばソフト会社でありながら、どういう訳かプログラマーには任命されなかった。上司である役員もかなり変わった人であったが、企画室というセクションをつくってくれてドキュメントの標準化や資料整備に当たらせてくれた。自分はといえば、コンピュータ嫌いでもありプログラミングの授業はまったくとっていなかったので好都合でもあった。おまけに卒論も、大学初の特許法を自ら大学に申し出て認められた。
会社では、技術者達は仕事に追われ、泊まり込みも日常化している中、吉田啓吾は残業もなく時間を持て余していた。何かをしなければと言う気持ちが強く湧き、ドクメンテーション学会に参加し文書や資料の何たるかを勉強することにした。また、都立大で夜間聴講生制度があることを知り、民法の講座を受講することにした。
これを一年間で終えると、もともと興味のあったメディカルエレクトロニクスの夜間講座を電機大学の大学院で学んだ。例え今すぐ役に立たなくても、きっといつかは、という思いだった。