28.小道具達との出会いと実践

ー知的生産の技術との出会い
私が梅棹貞夫さんの知的生産の技術という本と出会ったのは、大学を卒業し夜間勤務から昼間勤務に移動し、資料整理や文書標準化係に任命された頃だった。資料整理法の観点から手に取って、随分触発されマネをした覚えがある。ついにはその教えにより、ひらがなタイプライターなるものを購入し、会社の資料作成に使ってみたが、これは会社での評判は良くなかった。ひらがなしか打てないので、漢字の部分を赤字でタイプするなど工夫を凝らしたが、仕事に応用するというよりは自分だけの文章書きに使っていた。
そうこうするうちにワープロが登場するようになり、当時カネもなかったので、ひらがなタイプライターは質屋に入ってくれたと思う。
ひらがなタイプライターで、勉強になったのは、日本語の分かち書きについてであった。
何しろひらがなでしか打てないので、句読点以外でひらがな続きの文はとても読みにくく、スペースを入れて言葉を分ける必要があった。それは読みのブレスの位置だったり、言葉の意味の区切りだったりする。
私は、高校時代から通信士を目指していたので、カタカナ表記の電報文の読には慣れていた。その電報文には、決して読み易いように、分かち書きがしてあるわけではなかった。
また同書は、資料の整理に多くの挑戦をさせてくれた。当時勤めていた会社の蔵書や資料の数は、そう多くなく、例え分類法や配架法を間違えても数日でやり変えが聞く程度のものだった。
新聞のクリッピングも自分の役割だった。これは随分と勉強になった。何より一番先に最新ニュースを読むことが出来、その重要性を判断し切り抜きトップ以下社員に回し、また複製をとって顧客に情報サービスする役割で、業界の知識はよく頭に入って来たからだ。
このクリッピングの整理方法も、当時は電子的なものでなく物理的なファイリングだったから、その記事が後でどのような主題で検索されるかを、よくよく考えながらファイリングしたものである。


ー言葉との出会い
昔から文章を書くことは大の苦手なことだった。それがどうしたことか、前職時代に40冊もの本を書くようになったのは、何より恩師が雑誌連載を任せてくれたことによるものだと思う。
しかし未だに文章は苦手である。それでも書けるようになったのは、まず図解ありきで、頭の中に構造をイメージしてからそれに文章をつけていく方法が自分の得意技となったからであろう。だから、原理や構造のイメージもわかない内容についての文案化は、現在でも大の苦手となっている。
また当時の会社の親会社が、マーケティングの会社であったことから、会議等に同席するとKJ法やMN法(中山正和氏発案の発想法)が盛んに使われていた。当時私は、未だ発想法にさしたる興味は湧かず、むしろ言葉の整理の方法の一つとしてKJ法やMN法を捉えていた。言葉の海から筋道が生まれて来るといった使い方をしていた。また、これらの方法は、言葉の群れを構造化することでもあり、私流の図化して原稿を書くためには、非常に役立った。
私の恩師もZK法(片方善治氏)という発想法の主催者であることは、かなり後年になって知った。恩師との出会いの頃にそのことを知っていれば、また違った思考法も身に付いたかも知れないな。


ー企画者への変貌
資料整理や文書標準化の仕事から、マイクロコンピューター入門の雑誌連載を始めるようになってから、私の仕事はマイクロコンピューター応用の事業部門を率いることになった。まだまだその他の雑誌連載や会社名での出版や講演なども多かったが、これまた恩師のところに持ち込まれた、当時マイクロコンピューターのトップメーカーから短波放送のマイクロコンピューター入門講座のテキスト執筆と講師依頼が私のところに持ち込まれた。
講師やテキスト執筆は、もう手慣れた分野となっていたが、この仕事をきっかけに宣伝部との付き合いが生まれ、同社にとってのマイクロコンピューターを使った新規企画の依頼が来るようになった。
当時のマイクロコンピューターの宣伝といえば、身近な業務に焦点が当たったようなものばかり。もっと楽しい、行く人の目を引く、それでいて何かを感じさせるものを企画しようと、寄りどころにしたのが発想法としてのKJ法や自分なりに考案した思考マップだった。
私は、キーワードは音楽だという閃きは持っていた。自分が音楽が好きで、バンドを組んでいたりエレクトーン等も弾いていたこともあるだろう。
当時からマイクロコンピューターで譜面を打ち込むと演奏ができるという、DTMディスクトップミュージック)ソフトの先駆けのようなものはあった。
思考マップの利用やAチームメンバーとの酒席混じり会議で、マイクロコンピューターを手弾きする女性バンド、名付けてパピコンバンドをイメージし、早速Aチームメンバーであったデザイナー君に、そのイメージをイラストにしてもらい、絵だけの企画書を某メーカー宣伝部に持ち込んだ。そのコンセプトは、マイクロコンピューターを使うのは人間であり、決して自動化により人に置き換わるものではない、というものだった。
一発OKが出て、手弾きソフトの開発やバンドの編成後、数年間の全国巡業で我が事業部の収益となった。この成功により、同メーカーより次はロボットでのマイクロコンピューターの活用が命題として与えられた。
これについても、自分のコンセプトは、人間が中心でロボットはその補助をするものだ、という点にあった。前回と同様にAチームメンバーとの酒席混じり会議と思考マップソフトで、人形浄瑠璃りの黒子をロボットにするという企画を発想し、直ちにイラストを描き持ち込んだ。これも一発OKが出て、黒子ロボットの開発には半年以上かかったが、同社をあげての年一回の大展示会で、浄瑠璃人形師が演じる人形とロボットが操る人形とが共演をして大きな人気を博した。
その後、世の中は地方博覧会ブームとなり、同社のパビリオンの中心展示の企画と開発、運営を任され、究極は筑波万博の同社パビリオンのコンセプト制作を受注できることとなった。
このような過程を受け、自分の事業部は、すっかりシステムを使ったイベント企画受託部門となって行った。
この仕事を通じて、いつもそばにあったのは、多くの発想法であり思考マップであった。そしてその中心にあるのは、言葉からの刺激であった。
思考マップについては、次のテーマとしよう。