手に伝わる暖かさ

最近しみじみ感じることがある。温かいお湯で手を洗えば、指先からほのぼのとした暖かい、幸せが運ばれてくるような気がするのだ。決してそれまで指先が凍えているわけではない。体が冷えているわけでもない。
冷たい水で顔を洗ったり手を洗うと、ピリッとして目が覚めたような気がするが、それは身体に緊張を伝えているのだ。
連れ合いにはもったいないといわれるのだが、お湯が出るところでできるだけ手を洗うことにしている。会社のお手洗いもお湯が出るので幸せに浸っている。これは豊かさの象徴でもあろう。贅沢の極みかもしれない。
しかし、特に最近自分の中に言い聞かせていることがある。それは出来る限り暖かいものに触り受け入れようと。飲み物にしてもしかり。冷たいものを飲むと、心底冷え冷えとしてくる。これは手術してから、身体が超冷え性になったからということにも起因していると思う。
今日は自分の体のことはさておき、論を展開したいと思う。
手当てという言葉がある。それは掌から特別のエネルギーが放射されており、その掌を痛いところや病んでいる所に当てると、痛みや病が癒えるたり治まったりすることからきている。その手を温めるということは大事なことではなかろうか。
仕事をしていると、一日に何回か握手することがある。相手により手が温かい人、冷たい人、湿っている人、乾いている人、様々である。どちらかというと自分の手は冷たいほうに入るだろう。
握手して暖かさを感じる人にはとても優しさを感じる。この人となら仕事がうまくいきそうな感じがするから不思議だ。そしてある意味危険だ。
あくまで暖かく感じるかどうかは相対的なものであるから、自分より冷たい人と握手すれば冷やりとするだろうから、このような話は全く意味が無いことになる。はずだ。
しかし、暖かさが幸せを感じることも事実である。
私はこう思うことにしている。握手して暖かさを受けた人には”幸せをくれて有難う”と。またヒンヤリとして緊張を与えてくれた人には”厳しさを教えてくれて有難う。私からは幸せを”と。
出来る限り私は手を温めていたい。自分が幸せでいたいから。そして皆にも幸せを伝えたいから。
街中で恋人同士が手を繋いで歩いている。どうか幸せを共有して幸せになって。社内でいつも胃の付近に手を当てて歩いているO君、早くストレスがなくなるといいね。