バレーボールの練習を終えて家に帰ったある日、家の中は静かでした。従業員も誰一人居ず、親父もどこかに出かけているようでした。母が、一人で幾つかの布団袋の上にちょこんと腰を掛け泣いていました。見回すと家具のすべてに赤い紙が貼ってありました。何の紙かも知る由もなく、母に尋ねたのです。
「どうしたとね。この紙は何ね」
「家が破産したと。この家にはもう住めんとよ。あんたも自分の道具ばそこの箱に詰めときんしゃい。直ぐに引越しするけん。赤い紙が貼ってあるとは、もう人の物になったという印ばい。もう使ったらいかんと」
私には、破産という意味も母の言った他の言葉も良くは理解できなかったが、仕事が上手くいかずに失敗し、すぐにでも引っ越ししなければならないことだけが分かった。
母は、これまで親父と口げんかをしても決して私の前では涙を見せたことがなかった。例え、平手打ちをされて青い痣を作っていても。だから、その涙を見た時の情景は、いまも写真のように私の中に残っている。
母の説明によると、在庫を抱え過ぎて倒産したのだという。しかし、母の涙へのショックはあっても、自分がどうなっていくのかなどの不安や悲しさは浮かばず、ただただ母の傍に座っている、世間が判らないつまらない息子だった。


それからすぐに引越しをした。妙見から近くの吉塚の奥の方だった。
大人になって東京からの出張時に、想い出を手繰りに探し回ってみたけれど、妙見神社こそ分かったが、その他の場所は、様変わりしていてまったく分からなかった。
母に聞くと、この引っ越し先は、新しい家が建つまでの仮住まいだという。私が長じてより驚くのは、親父の資金づくりであった。考えてみると、自転車屋からオートバイ屋まで順調に商売が発展し、その時にため込んでいたお金があったのか、破産になれば一切の財産を出さねばならないところだろうが、どの様にして切り抜けたのだろうか。いまもなお、不思議である。
仮住まいの引っ越し先では広い庭があり、そこでは親父はシェパードを飼い始めた。我が家に犬が登場する初めての出来事だった。親父の犬への躾は厳しくて、時折しゅんとしてうな垂れているシェパード、レイタという名前だったが、いつも可哀そうだと思っていた。我が家に庭が出来たのも初めてのことだった。
子供というのは、親の経済なんて余程のことがなければ分からないものか、それとも私の呆けが酷かったのか、家が破産したにもかかわらず、前の家より広い家に住める理屈も詮索などできず、ただただレイタと遊ぶ日が続いていた。吉塚の奥まった家では、周りに子供たちの輪もなく、また中学校からも遠く、1人で遊ぶしかなかったように思う。
この時期、両親の喧嘩は収まっていたように思う。経済がこのように二人を苦しめていた大きな要因だったのだろう。


 中学も二年生になった頃、ようやく家が出来、引っ越しをした。六月田町というところで、渡辺通りからちょっと入ったところで、中学に通うには便利なところだった。これまた立派な家だった。玄関先には私用の六畳間の洋室が設けられいた。大きな庭があり草木が植えられてガレージも付いていた。その家の間取りなどはまったく記憶になく、ただただ自分の部屋に籠り一人遊びをしていた。食事をしていた部屋すら思い出せないのだから、中学生と言えども幼いものである。
当時、親父が何をして生活をしていたのかもまったく分からない。毎日出かけていたのか、家で仕事をしていたのかも不明である。
私の当時の一人遊びは化学実験だった。小学校の高学年から理科が好きになり、大人が読む科学雑誌や単行本を買っていました。いま思えばどうしてそんなことをと思うのですが、無知というのは怖いものです。
近くにあった、科学器具専門店から解剖キットというものを手に入れ、メスやピンセットなどを筆箱の中に入れて通学していたのです。そうしてある日、それをクラスメートに自慢していたところ、急に前の座席の女の子が振り返り、背中にメスで傷を負わせたのです。通報で先生が駆けつけ、女の子は保健室に連れて行かれ、私は就業後も教室でじーっと待たされていました。どういう結末が付いたか不明ですが、先生の口からもうこんなものを学校に持ってくるんじゃない、と強く叱られ、解放されました。きっと家族も呼ばれて知るところになっているのだろうと覚悟して家に帰りましたが、なんの咎めもありませんでした。家族には通報されなかったのでしょう。親父のことだから、これまで母はたたたいても、私には手を挙げなかった親父ですが今回ばかりは殴られるだろうと思いながら帰ったのです。