1.SNSやインターネット

マイホームページ(BEKKOAMEの初期の頃)やこのブログなどSNSやインターネットに関することを始めて二十数年近くになる。趣味だと言われて仕舞えばその通りでもある。しかし、私にとってこれらを使うことは、大きく仕事に貢献したと言える。
私的に情報発信するということは、毎日コラムやエッセイを書くことであり、また一つのテーマについて評論や解説をすることである。つまり文章修行の場である。もちろん気まぐれや流行に乗って発信する人も多かろうが、長続きはしない。
毎日積み重ねれば何かを会得する、必ず会得する。
いま、世の中はシニアの時代となり、自分史講座は大人気であるという。情報発信を積み重ねれば、そのものが自分史でもある。
毎日目的もなく、文を捻り出すことは、そして長く続けることは、必ず表現やまとめを上達させる。必ずである。
もちろん手軽に書くから誤字脱字もあろう、間違った思い込みで内容を構成することもあろう。それでもいいじゃないか。とにかく書き始めてみればいい。
毎日書き綴ったメモの端くれは、ネット上に記録され、消さない限りは消えることはない。ノートに書いたことは探すのは大変だが、ネットに上がっているものは容易に取り出すことができる。
メモの断片であれ、多くの蓄積が溜まるほどそれは仕事に役立ってくる。創作文章でなくても構わない。
ネット上の記事にいいねやシェアをするだけでも、折々に自分が気に入った事柄をたどることができる。私は、自分の記憶を辿るためにいいねやシェアをしているので、拡散することは目的ではない。
自分の意見を書き記し溜める以外にも、情報収集やその蓄積を同じ場所で行うことができてしまうのだ。
わたしは、こうやって自分の記録を残しているが、単に思いつきを書くばかりではなく、気分によっては独りよがりの俳句や短歌や詩歌にしている。
ネットには上等な、品質の良いコンテンツでなければ載せてはならないなんて決まりはない。人を誹謗中傷しなければ良いだけだ。酷い内容だからと恥ずかしがる必要もない。
とにかく書き始めてみれば、そして見返してみれば顔が真っ赤になるような間違いに出会うことがある。気がついたときに修正すればいいではないか。命を失うわけではない。
二つある。一つは、次々と修正を重ねてブラッシュアップし、表現の技量が高まること。一つは、間違いを正さずじっと我慢し批判があれば耐えること。これは、書くということ、アップすることの慎重さを醸成することになる。
私は病気して以来激しく非難する文を上げることが増えてきた。このような文を書いて、と迷うことも多い。そして、当事者が読んで対立を深めることになるかも知れないとも考える。しかし、そうなった時のことも決意している。
つまり軽いことも重いことも、書くということについては、相当に自分と向き合っていることになる。これが仕事に役立たないはずがない。
SNSなどで書くことは、社会にとって意味のあることではなくて、先ずは自分にのみ意味あることでしかないと認ずるべきでありましょう。そう思えば、かしこまることも気取ることもなく、自由に振る舞えば良いことが分かる。
さあ始めようSNS