おはようございます。
よく寝ました。
昨夜、家に着いて見て、隣に新しい家が棟上げまで終わっていることに気がついた。出張前は土台だけだったんだが。建て込みの早いこと。
建ってわかったことは、家への日差しがかなり減るということだ。仕方が無いことなのだろうが、隣が駐車場だった頃の、あの目一杯の日差しが無くなることは寂しいことだね。
さて、今日は29日、家の片付けやら本の整理やら、午後は少し動き回りましょう。
昨日から読んでいる、虹の岬の喫茶店、今日の朝日新聞で10万部近くの部数という。また映画かもされるという、きっと素晴らしい景色の中に立つ喫茶店なんだろうな。優しい店主の悦子さんなんだろうね。


本を読むことで鍛えられることは、自分の中にある、論理と感情とが、読み進める時間とともにうまく調和するということだろう。あるいは調和する時間が生まれるということだろう。これが映画や直面する現実の世界では、リアルタイムに論理と感情が衝突してしまうので、調和する時間が生まれず、感情が優ってしまうことが多いのだろう。
そういう意味で、自分は会社通勤時間が長くて、それを苦とも思わず読み継いでこれたことを幸せだと思うね。まるで倍の人生があったかのようだ。


1151現在。
今日から、家で少しずつ読む本として、立花隆さんの、自分史の書き方、を選んだ。自分の自分史のためではない、ある目的があってのこと。ライフワークとして、団塊の世代に向けての事業というかサービスを頭に描いているからだ。
自分の自分史は、このブログで十分である。強い思いは、詩歌に、考えは散文に、日々の心の揺らぎは毎日のブログにね。もう、10数年書き綴っている。
その昔の生い立ちなどは、散文に時折まとめているが、記憶にないことは書きようもない。わずかな痕跡だけが残っているだけなんだ。


古いことは美しいことで十分だ。禍根に残ることも因縁の別れも決別も、今それぞれが幸せであれば良い。思い出を辿り決別を繋げることよりは、今を大事に幸せにすることが課せられた運命だと思っている。繋がれば、そのエネルギーがまた新たな波紋を広げることもある。
縁起でもないが、葬儀に当たって揉め事が起こることはそのようなことだ。親父の時もそうだったな。それがその後の絆を強めたとはとても思えない。
縁はとても強いものだが、ある時点よりは、縁を戻すことより、互いに幸せを見守ってあげることが、そして恨んでもいいから幸せになってやるという気概こそが大事なのではなかろうか。
よくドラマにあるような、色々な決別が再会によりハッピーエンドとなる場面は、その後の新たな火種を描いていない。


1951現在。義母が熱を出している。
風邪により寝込んでいる義母が再び熱を出している。よって大事をとって、何時ものお正月の年越し旅行は中止することにした。
お墓掃除や、新年の集いなど表に出ることで風邪が悪化し肺炎にならないようとの決断だ。肺炎は一夜にして急変することがあるからね。