セカンドライフとハビタットそしてアマチュア無線

最近の話題はもっぱらセカンドライフだ。朝日新聞にも紹介記事が出ていた。自分自身は格別の興味は無かったのだが、この数日考え込んでいる。そのきっかけは、村上春樹さんの”世界の終わりとハードボイルドワンダーランド”にあるといえよう。実に不思議な小説だ。まだあと数ページを残しているので結末は迎えていないが、例え結末がどうであろうと、この不思議さは意識下の世界と現実の世界の極めて近い部分を表現したものである事に違いは無い。
まだセカンドライフに参加したことは無いが、紹介文を読むと昔のハビタットのような3D表現で表されたサイバーでのコミュニケーション世界、コミュニティ生活を楽しむものである。そこに通用する通貨が実際のドルと交換可能ということや、そこに誕生する商品やサービスのサイバービジネスが盛んでもあるということが話題として捉えられている。確かハビタットもほとんど同じコンセプトではなかったろうか。通貨が実際に現実のドルに交換可能かは定かではなかったが。
セカンドライフのキモは何かといえば、それはやはり通貨の問題ではなく、サイバースペース上のコミュニケーションが人間に受け入れられるかどうかということであり、結論はそれが楽しいという人々が多いということなんだろう。
自分も参加しているMixiも、その軽快なコミュニケーションを見ていると、至極平和で、だが余り深みに入らないやや表面的なコミュニケーション世界である。ここでは文字コミュニケーションが中心で、セカンドライフのようにアパター(3Dのキャラクター)が自分の代理人として動き回る視覚的世界とは大きく異なるが、形而上的な意味合いは全く同じであると考える。
一方、人生の一部のように長い付き合いをしているアマチュア無線は極めて古い電話ごっこのようなものだ。しかし、よく考えてみると、世界中の見ず知らずの相手と、出会い、気ままに喋り、ある程度身を明かさずコールサインだけで軽い話をする。場合によっては、今で言うオフ会もある。その違いは、文字で話すか言葉で話すかの違いだけである。
言葉で喋るということは、リアルタイムにコミュニケーションが行われることだが、文字でのコミュニケーションはチャットはリアルタイムでありサイバーという感覚はやや遠ざかる。しかし、ブログやBBSのような文字でのコミュニケーションは、時間差が発生するためにリアルタイム性は失われ、サイバー性が正面に出てくる。
だが良く考えてみると、リアルとサイバーって何なんだろう。面と向かって対応していてもサイバーってあるのではないかという気もする。
昔の自分の原稿に、脳死を人間の死とするのではなく、脳だけを最後まで生かす方法について記述したものがある。脳の細胞がほんの少しでもあるうちは夢を見続けていくことが出来るのではないだろうかという発想に基づくものである。勿論血流や栄養は与え続けなければならないが、そういう装置に脳を移し変えれば、痛みも無く、思考や夢を見続けられるのではないだろうか。
うまくまとめることは出来ないが、人間はいつもスパイラル状に同じ事を繰り返しながら、しかしながらそこに使う道具の発達により少し次元の異なる世界を実現しているだけのことかなと感じる。
極端な距離感のあるリアルとサイバーとを考えるのではなく、接近した領域でリアルとサイバーの違いや同一性を深く考えると、何か面白いことに出くわす、あるいは発見するような気がしてならない。
もう一つ古い原稿に、遠くはなれた家族が、それぞれのリビングの一つの壁をプロジェクターのスクリーンとして、ネットにより相手のリビングの映像を映し出し、遠く離れた空間が、隣の部屋のように連続して、家族のコミュニケーションを日常生活のように同居して暮らせることを書いたが、いまその全てが実現できるときが来たんだと強く思う。勿論、九州のおばあちゃんが食べているお刺身を、つまみ食いする事は実現できないが、刺身の活きのよさはすぐに分かる。手は出せないが気遣いはできるのだ。
これはリアルでありサイバーなのではないだろうか。いつか面白いまとめが出来ることを楽しみにしているのだ。