拘り

最近こだわりということについてよく考える。それこそ拘っているのだろう。
拘りたいという話ではなく、拘らないようにしたいというのが、この話の趣旨である。
昔から、拘りは強い方だった。それを自信にしていたといってもいい。
だが、振り返ってみると、拘ったもので成功したなという記憶は殆どない。
拘って拘り抜いて書いた本は、虚しくも初版だけで終わることが殆どであった。
拘って、企画した提案は、スッと通ったためしがない。
特に最近、プロデューサー的な仕事ばかりをしていると、人の拘りにササッと調味料をふりかけたり、配膳や色の取り合わせを工夫するだけで、上手く仕事が花開くことが多い。素材の人の原石も磨かれ、自分は編成する力を養われる。

確信していることがある。それは、拘りの力が抜けたときに光を発するんだということを。拘りがなければ、集中して取り組む何事も始まらない。漫然と、興味本位に、目の前に何物かが現れ、手招きして通り過ぎていくだけだ。
拘りを持って集中的に物事に取り組む事は重要だと思う。そのような努力なしに、持ち合わせた感性だけで勝負するする人は、いつか人と時代に取り残されると思っている。

先週まで、東京理科大知財大学院エッセンスセミナーに通ってみたが、久々にその思いを強くした。60人くらい入るセミナールームには、開講する19時の30分以上前から席を取りにやって来る。まだ学生のような人から、バリバリのビジネスマン、定年まじかのおじさんまで幅広く、また男女半々という絵に描いたようなバランスのよい講座であった。
内容については充分に満足するものであったし、秋期講座にも出席しようと決めている。
ここで言いたい事は2つある。
1)この理科大の拘りは素晴らしい。社会人に向けた生涯教育という取り組みとして非常に立派だと思っている。長く続けていってもらいたいものだ。全6回の講座であったが、毎回講義の終了とともに大きな拍手が自然に湧く。この感動は受ける方にも開催する方にも強く残るものだろう。理科大は素晴らしい。
2)もう一つは、受講者のエネルギーである。自分は1回欠席、1回飲酒運転、という体たらくであったが、授業は熱心に聞いた。受講者の観察をしてみると、一様に熱心にノートを取っている。寝ている人は殆どいない。昼間働きながら、夜に専門的な授業を受けに来る。この熱意には、拘りには感動を覚える。自分の人生は自分で築くということを知っている人達なんだと。

自分には、まだ強い拘りが沸々している。この60歳を過ぎた年でも。
しかし、最近はこの拘りが自分を狭くしているんだということに気がついている。この年になっての拘りは、自分の心の奥底にひっそりと閉じ込めておくべきなんだろう。
拘りがあれば、人と争うことになる。拘りがあれば、人を悪しく言うことがある。拘りがあれば、それを活かそうとする。拘りがあれば、狭い了見で集うことになる。拘りがあれば、頑固になる。拘りがあれば、自信過剰になる。

君は一体幾つなんだ。後進に道を譲って、チンとしていればいいんだよ。
そんな言葉が聞こえそう。
だが、拘りは捨てない。拘りを捨てれば、自分を捨てることになるからだ。
それよりなにより、自分のために拘らず、もうここまで来たんだ、人のために拘ろう。
そう思って生きていけば、片意地張らずに本当の勉強ができることになるだろう。