0945現在。
おはようございます。晴れの蒸し暑い朝でございます。TVでは京都の祇園祭の、あとの祭り中継をやっているが、まさに炎天下の中だ。昔、大阪出張の際の宿泊先を四条近くに定めていたが、夜になって宿に帰ってくる途中で、ピーヒャラのお囃子の音が聴こえていたのを懐かしく思い出した。

老人になったせいか、昔のことをよく思い出すようになった。私は、実に周りの人に恵まれてきた人生をおくってきたと、つくづく感じている。なかでも恩師のことは今も感謝にたえない。
恩師K先生とは、最初直接の面識もなく、当時の会社の顧問だった人の、指導者にあたる人だった。その顧問の先生を介して、K先生からマイコンの解説連載記事を書ける人がいないかとの問い合わせがあり、当時会社の中で一番暇そうだった自分に白羽の矢がたった。大学では、自分は電気通信工学分野を専攻していたが、もとよりコンピュータが嫌いで、それに関する授業科目は全く取らなかった。そんな人間に連載記事など書けるのか、とも思ったが、全くの素人が学んでいくステップを連載しようと決めて、そこから講習会やら専門書で大急ぎで学ぶこととなった。また、それまで原稿なども全く書いた経験もなく、実に危なっかしい船出であったことを覚えている。時代もそれを許す、のんびりした時代だったのかも知れない。
当面会社に来る必要はないから、とも言われ、それから約数ヵ月は学生に戻ったような、自由な日々を過ごした。数ヶ月の準備期間があったのが幸いだった。それから大判の雑誌12頁を毎月締切に間に合わせる苦行が2年間続くこととなった。最初の頃は、恩師や中継してくれた先生が原稿に赤を入れるのに苦労されたであろうが、書き直しというようなことは記憶していない。
この原稿書きが、今の自分の原点となっている。その連載が好評のうちに終わり、単行本化の話が次々と舞い込んだ。一つの原稿へのチャレンジが、連載から単行本、そして講演会など三段活用のように、形を変えていくんだという、コンテンツの面白さ、不思議さを実感した原点であった。
恩師の著書は、千冊近くになると言っても過言ではない。ウイキペディアでの業績を見ると大変な数だ。その後、恩師の事務所で横に並んで、一冊の本を書き上げながら、恩師の執筆方法を学ばせてもらった。
恩師は、第一回のフルブライト留学生であり、思考や決断も早く様々な面での貴重な教えを頂いたと思っている。

本日の体重は、65.2Kgでした。

O乙AM2Cl+F+M2