0947現在。
おはようございます。快晴で微風が吹いています。これぞ夏の朝、という暑い朝でございます。
昨日は、大相撲千秋楽で思いもよらない展開となりました。コロナ禍での開催で、想像を超える途中休場者が出て、取り組み組み合わせも、また圧倒的に時間もスカスカとなってしまった。初めてのことだから仕方がないとはいえ、大関横綱が全員感染休場してしまうような事態にでもなっていたら、どうしていたんだろう。きっと無理して出場させるような事態をこしらえ、継続してしまうのだろうな。途中で場所を閉めるような英断も本当は必要だと思うけれど。

1440現在。〈恩師との思い出〉
恩師は、94歳になられる。そしていまもなお、オンラインで講演をされているというから、凄いなーと感心するばかりだ。
先生とは、雑誌のマイコン記事の連載を皮切りにして、単行本の共著など数多くの執筆を共にさせていただき、本を企画し、出版社に提案し、執筆を行うという一連の仕事を成し遂げる力を頂いた。また併せて、その成果をもとに別の力も編み出すこともできた。それはNECがスポンサーとなり、マイコンの放送講座(ラジオ短波)を開始するにあたり、私も協力することになったことから始まる。当初、NEC宣伝部に依頼され、当時マイコンの著書で脚光を浴びていた私の母校のY先生に番組の講師をお願いすることから始まった。しかし母校にY先生を尋ねてお願いをするも断られ、それでは他に誰かいないかということで、雑誌の連載のこともあり、私が恩師を紹介した。そこから恩師と共に約2年間の番組の講師を務めることになった。当初一年の予定だったが、好評につき一年延長された。
恩師は他の番組にも出られていたので即答で仕事を受けられたが、私は初めてだったのでドキドキしたことを覚えている。
放送で恩師とのやり取りで進行するなんて、下書きもなくできるんだろうかと悩み、自ら簡単な台本作成をかってでた。もちろん台本などの作成の経験はなく、なるようになる、とばかりに作ってみた。そうして2年間に渡り週一回の放送収録を終えることができたのだ。
当時私も時間に追われていたので、その台本は前職の会社をタクシーで早めに出て、タクシーの中とラジオ局の待合室で集中して作成していた。もちろん当時のことだから、ワープロもなく大きなマス目の原稿用紙に鉛筆で乱雑に手書きしたものだった。しかし先生はそれを一回の素読みでリテイクなしで、私との対話をこなしてしまう。やはり超人の頭の良さだ。もちろん私は自分の書いた台本だから、スラスラ喋れるのは当たり前のことだ。
そのことは私に大きな力を与えてくれた。つまり、その後様々な新しい仕事をするにあたって、先に手を挙げて段取りや企画をさせてもらいながら仕事を進めた。
恩師も、そんな私との仕事の相性を感じてくれたのか、その他の番組や、講演会への参加、提案の作成など重用してくれた。今の私の仕事の進め方は、全て恩師との時代に形成されたものなんだ。
この後、Aチームについても語らなければならない。


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