”あさかぜ”の想い

昔、”あさかぜ”には2度ばかり乗ったことがある。鮮明に覚えているのは、19歳の時に、家族の殆どが東京に出て、祖母と自分だけが博多に残り、自分は大学に進んだものの、祖母も脳溢血で死に、博多で独りぼっちになり、いよいよ上京して家族と一緒に暮らそうかという時に乗ったのが”あさかぜ”だった。
当時、パン屋で深夜までのアルバイトをしていたので、切符は自分で手配した。博多からの東京行き寝台だった。
当時、福間という地域にあったパン工場の宿舎に入っていたが、夕方6時から深夜2時までのパンの仕分け作業を他のアルバイトの人たちと行っていた。
大学1年生の頃だが、学費は自分で賄うことを条件に、住み込みで働いていた。
だが、大学紛争の兆しが見え、また深夜のきつい労働もあり、授業には殆ど出る事もなく、毎日を過ごしていた。工場の直ぐ裏には、夏の日に輝く玄界灘があり青い海と白い砂浜で時を過ごしていた。
そんな秋口に、祖母が死んだ。パン工場に電話を貰い、慌てて自宅へ帰ったときにはもう亡くなっていた。
優しい祖母だった。自分が家を離れなければ、大事に至らなかったかもしれない思いや苦労をかけた思いが去来して、一晩中泣き明かした。1人で付き添っていた。
翌日に家族が東京から”あさかぜ”に乗ってやってきた。
この祖母の死で、自分も東京に出ることを決断した。
簡単な葬儀の後、パン工場に戻り、僅かな家財道具ではあったが、布団やギター、大事にしていた受信機”9R-59”を近くの質屋に入れて上京したのだった。
”あさかぜ”では3段ベットの寝台に乗ったが、同室に30前の女性が一緒だった。他の同室者がいたかどうかは記憶にない。
ベッドは上段だった。当時から身長が高かった自分には好都合であった。足先が荷物置き場となっており、自由に足を伸ばせた。初めての寝台車は、なかなか寝苦しく、停車駅に着くたびに目が覚めていた。わりと小さな硬い枕も合わなかった記憶がある。
その女性は、あれこれと世話を焼いてくれ、東京に着くまで寂しい思いをすることなく過ごすことができた。駅弁などを買ってくれて、一緒におしゃべりをしながら過ごした。綺麗なスレンダーな人であった。
当時、我家は下井草にあり、初めて行く西武新宿線への乗り継ぎの仕方などを教わり、東京駅で別れた。
確かそのときは、東京は初めての場所であり、喧騒の東京駅や、迷路のような東京の電車マップに不安な気持ちで一杯のところを、この女性に助けられてことで強い記憶が残っているのであろう。
松本清張さんの”点と線”は、丁度この時期に読んだものと思われる。
上京して、暫くはパン工場での稼ぎの貯金で、翌年の大学受験の費用や参考書代、食費を賄うことができ、上井草にある図書館に浪人生として通っていた。
確か、その図書館で松本清張さんの多数の本を読むことになった。
懐かしい”あさかぜ”と青春の思い出でありました。