高校三年も後期になり、級友はそれぞれに進路を決める時がやってきました。高校では、一年から三年まで一貫して通信士になる専門クラスに居ましたから、主要な級友は既に三級無線通信士の資格を得て漁船に乗る進路を決めていたり、或いは更に上級の資格を得て外国航路の通信士になるべく熊本の上級学校に進学するなどを決めていました。
私はと言えば、既にもう通信士になって世界を巡る強い想いは消え去り、現実的には大学に進学し無線技術士として放送局に勤めたいという夢に変わっておりました。
大学進学のことを父親に伝えたのは、初めて自分から親父に口をきいた瞬間だったのかもしれません。
親父は、いま思えば家計が苦しい中、そんなことはおくびにも出さず、大学進学を認め入学金を出すことを承知してくれました。母親は、横に座って黙って聞いていましたが、親父の言葉に涙を流していました。
私は、もうこれ以上に家が立ち直ることはなく、ますます苦しい生活の道に進むことを察知しておりました。
いよいよ三学期に入った時に、親父は私たちは東京に行くことにした。ここでは地方ということもあり、自分の考えている事業は上手くいかない。東京に居を構えて事業を行っていきたい。ついては、お前には仕送りをするからこのまま大学に進学するがよい。と私に話しました。親父から面と向かって話されたことも、数少ない大きな出来事でした。
私は、親父の話を聞いて、この先の我が家の経済が東京に行っても続くとは考えられず、働かねばならないことを決意しました。とは言え、大学には行きたかったので、夜働いて昼間学校に行けるところを探しました。しかし、そう安直には見つかりません。しかし何故か水商売の道は探しませんでした。きっとバーや旅館等を経営して、両親の喧嘩が絶えなかったことが大きな影響もあったのでしょう。夜も操業している工場や倉庫番等を探しましたが、新聞にはそういう求人は出ていませんでした。
ふとある時に、新宮の大学の近くのパン工場が、夜間のパンの仕分け作業員を募集していました。面接に行くと直ぐに合格しました。しかし、よく話を聞いてみると、本来は三時までなんだが、学生だから二十四時位で仕事を上がっていいとの申し出を認めてくれましたが、そこから博多まで帰る電車もバスもありません。結局、寮への入居まで認めてくれました。
家に帰って、親父にパン工場に勤める事、寮に入ることなどを話しました。親父は、自分勝手に行動する息子を怒ることなく、俺も小さなころパン屋に丁稚に出されて、朝早くから働いたもんだとの一言で、あとは、井尻で一人生活する祖母に向かって、お祖母ちゃん、こんな情況でお祖母ちゃんだけでこの家に暮らすことになって申し訳ない。仕送りはちゃんとするから、どうか頑張って暮らしてください。東京で事業が上手くいったら必ず迎えにくるから。けれど、親父以外の誰一人としてその日が来ることは期待していない悲しさは共有しておりました。
大学への入学式の日、その日はパン工場への出社日でもありました。親父は、自分たちが東京への旅立ちで忙しいところ、パン工場の寮への私の荷物運びを行ってくれたのです。
入学式に親父が出席したか否かは結局聞かずじまい。しかし、入学式が終わってのクラスに入ってオリエンテーションが行われ、テキスト代にかなりのお金がかかることを知りました。私には、かなりのショックでした。母にも親父にも、もうこれから私は、私の費用を全部賄うから安心してくださいと宣言して出かけてきたからです。悩みました。どうしたらよいんだろうかと。
授業の後、パン工場に向かって入社の手続きを済ませました。いまになって考えると、その工場は立派だったんですね。私がちゃんとした社員になって、健康保険にも社会保険にも入っていたのですから。恐らく、今は普通なのですが大学生で社会保険に加入している人は少なかったのではないでしょうか。私の年金加入年数に大きく寄与しております。
パン工場の仕事はきついものでした。とにかく、広い工場内を手押し車を押して地方のパン屋さんに明朝配達する仕分けを走りながら行うのですから。夜中に仕事を上がり寮に入るとバタンキュウとなりました。翌日は、大学の授業が朝から入っていましたので眠い中を起きてバスで登校しました。バスで数駅なので本当に近いところです。考えてみれば、定期など買わなくて歩いて通えば節約にもなったでしょう。
授業を聞いて、がっかりしたことを覚えています。何故なら、その専門基礎科目は、高校時代に学んで、さらに通信士と技術士の国家試験のために猛烈に勉強していた内容より遙かに初歩だったのです。当たり前ですよね。普通高校から来ている生徒にとっては至極当然のことだったのですが、未熟で我儘な私には心の隙が出来てしまいました。一つは、テキストは最小限必要なものを買えばよい。しかしそれでも金がない。もう一つは、授業は時々受ければよい。
そんな罰当たりの決意をしてしまいました。
両親と妹が東京に向かう日、私は仕事を理屈に見送りに行きませんでした。しかし、その時間が来ると捻くれ者は気持ちが抑えきれなくなり、上長に時間を貰い鹿児島本線の近くまで出て、その列車アサカゼが通るのを待ちました。どうしてか、涙が止まりません。大泣きしました。呆けものに罰が当たったのでしょう。


パン工場に勤め、給料はすぐもらえるもの、最初から全額貰えるものという世間知らずは天罰を食らいました。給料は、月末で今は月初め、給料の計算日は締めとの関係があり、最初の月は全額出るわけではないこと。最初の給料日に愕然としました。
助かったのは、寮でしたから朝昼晩の食事は必ず用意されていること。給料精算であって、毎日はちゃんと食べて行ける。
私は、ほとんど学校に行かなくなりました。
そんなある日、夕方からパン工場で仕事をしているとき、上長が呼びに来ました。家から電話があり、祖母が倒れたからすぐに帰りなさいとのことでした。私は勤め始めてから、一度だけ井尻の家に帰りました。パン工場からくすねてきたケーキを持って。罰は幾度にもあたるのでしょう。
私は、すぐに井尻に向かいました。祖母が倒れたことは、仲の良い向かいのおばさんが知らせてくれたとのこと。家についたときには、祖母の顔には白い布が被されていました。おばさんの話では、頭が痛いとおばさんの家に来て、おばさんは家に寝かせて医者を呼んだが、もう手遅れで息を引き取ったとのことだった。脳溢血だったという。
両親は今晩立って明日の朝来るというので、私は一人祖母の傍についていた。足の悪いチンと一緒に。私はこの不甲斐なさが込み上げ、一晩中大泣きした。泣き疲れてその横に寝てしまっていた。呆けた孫は、通夜のしきたりも知らず、線香もつけずただ泣いてばかりいたのだった。
翌日、両親が来たが葬儀らしきことはしなかったと記憶している。焼き場には私は連れて行かれなかったように思う。それは、金がなかったからなのか、他に事情があったからなのだろうか、いまから思えば不思議なことだ。
お骨を墓に埋めに行くというので、親父と私だけが車で飯塚に向かった。その車は親父の車だったのか、とすれば東京から母と一緒に車で来たのか、それも記憶にない。
 飯塚の焼山峠というところで車を降り、親父と一緒に山に入った。そこは道があるのかないのかよく分からないようなところを歩き、お墓もないようなところに祖母のお骨を埋めた。親父は線香を焚き私も手を合わせた。この光景は、私には不思議な光景だった。しかし、初めての葬儀であり、こんなものかという思いもしていた。
 後に、現在の家で母が亡くなり、お金がないのでお骨をお寺に預け、命日にはお寺さんにお参りを重ねていたが、親父がある日、家もお墓が欲しいと言い出し、無理をして近いところの霊園に墓を持った。その時に親父は祖母のお骨も入れると言って聞かなかった。そして親父は強引に博多まで行き、お骨を持ち出してきた。お骨の移動は役所の手続きがいると聞いていたが、親父はそんなこともせず持ってきたのだろう。こちらの墓に入れる時もその手続きはしなかった。
 このように私の家には不思議なことが多いのは確かである。しかしそれを知ったところで今の私がどうなるわけでもないので封印を解く気もしない。