難解なものが芸術だとは思わないのですが、間違ってますでしょうか。

おはようございます。
気温は暖かく、外はわずかに霧雨が降っております。
本日は、夜まで打ち合わせで慌ただしく。


2210現在。帰宅しました。
展示会の打ち合わせは、自分の思い通りのコンセプトで仕切らせてもらい、最短の打ち合わせ回数での、デザイン決定となった。詳細についてはいろいろとあるだろうが、基本を一回で決めるということは自分のポリシーでもある。初回のインスピレーションがブレるとろくな事はないのはこれまでの経験による所だから。
さて、話題は変わって、本日の車中読書は、芥川賞受賞作品の、円城塔さんの、道化師の蝶、だ。一応しっかりと読了した。が、何も伝わる所のない、時間の無駄のような作品だったかな。それなりに難しい言葉とひねくり回された、意味不明の論理が眈々と続くだけの、自己満足の凝縮されたものだと感じている。一つの表現の挑戦なんだろうが、理解できてなんぼだろうというのが正直な気持ちにとらわれている。選評で石原慎太郎さんが似たような事を述べているが、まさにその通りだと思う。読者が気の毒である。文学というより哲学なんだろうが、今時の哲学の方がもっとわかりやすい。
芥川賞というと、何か異常世界を背景として、あたかもそうでなければ人の本質に迫れないかのごとく、多くの受賞作が描かれている事が多いが、自分は何か間違っているような気がしている。同じく石原慎太郎さんも、直木賞の方が人間に迫り、表現のレベルが高いと述べているように、芸術は分からないものであってはいけない。
これが正直な思いだ。これまで直木賞受賞作をタイムリーに読んだ事が無いので、その実態は自分にはわからないが、難解で暗く異常な背景と表現こそが芸術だとは全く思わない。余り、がっかりさせないでほしいものだ。


一方、昨日読了した、田中慎弥さんの、共喰い、だが、これは物語として満足して読めたが、全体にして下品であった感に覆われている。例い下品な表現や背景があっても、全体に上質でなければならないと思っている。上質である事は上品という事と大きな違いがある。あくまで上質なんだ。言の葉にも下品があれば、それを余りある上質な言葉でバランスを取る事が芸術ではなかろうか。
こんな酷評する事は極めて稀だが、最近、上質な小説を読みつけているためだろうか、なんだか不快なものに当たってしまった気がしてならないんだ。
前回の芥川賞受賞作である、西村賢太さんの、苦役列車、は感じるものがあり、続けて全作品を読んだが、それは下品なものでしかなかった。実態にはそのような現実世界もあると思うのだが、雑多なものを煮込んだ灰汁を飲まされている気分にさせられてしまった。これも、表現技術の前の感受性に、上質なものと下品なものの葛藤がバランスされてないせいだと思っている。
明日からは、さて、誰を読もうかな。


本日の感じいった呟き。by. Shikita0913