心の厚み。

この歳になると、いろいろの人との出会いを振り返る。
人にはそれぞれの特徴があり、自分にないものに触れ、感動を受ける、羨望する。
出会って以降、共に多くの経験を積み、そばにいることも多い。
苦労も涙も、そしてスピリッツも共に味わい、共に振動した。
憧れの人がいる。
苦しい経験を、心の厚みとする人だ。私には求道者のように見える。
私は、どれだけその姿と決断に救われただろうか。
私は、その道をつなげたいと思っている。
人は、一人歩きをすることも大事ではあろうが、得たものがすべて自分の手になると思わないことだ。
鼻高々になることも、青臭い理想論をぶつことも結構、老人の戒めを説くことも結構。
私には、愚痴にしか聞こえない。愚痴としか思えない。愚痴をいう人を、私は、決して信じていない。裏表がある人を。
愚痴を飲み込み、あるいは直接問いただす人が好きだ。
そんなスピリットが好きだ。
自分に合わない人生などやめてしまえばいいのに。いくらでも、好きな人生は選べるだろうに。
卑怯な匂いがすると、もう私には共感するものがない。
毅然としない人に、真を正されるなど受けたくもない。聞きたくもない。
愚痴と悩みは異なると思っている。
心の厚みとは、あらゆることに自省を重ねることだろう。多くの経験や出来事について、他人の責任に転嫁せず、自分を正すことだ。問うことだ。
私は、その姿をいつもそばで見ている。
その精神を受け継こともできず、心の厚みとせず、矢を研ぎ刃を振り回す。そんな姿には、人の在り様が如何に天と地ほどの差があるものかを現している。
最近は、このような間の帳合を取りたくなくなってきた。基本的に帳合とは、一時的なバランスでしかなく、いずれまた、今度は一層大きく跳ね返ってくるだけのことでしかないとわかってきたから。
帳合をとることより、むしろ激突する方が自分の役割かな、と思い始めている。
鈍になり始めている心と切り結び、互いの血を見つめ合えば、再び共に目指していた心を思い出せるかもしれない。
そのために自分の人生をかけてみようと思っている。
斬り死にしようともいいではないか。もう何度かその経験はあり、覚悟はあるから。覚悟の前に事態を迎えたことも。


昨日からの読書は、飛鳥井千砂さんの、海を見に行こう、だ。最近は、主人公はともかく、女性作家の強さと優しさに惚れる。