本を読むこと

最近、ますます本を読む量というか数が増えている。
そのほとんどは小説であり、具体的に仕事の役に立つ資料や仕込みの本を読むことは極めて少なくなっている。その類は、読むとしても新書が多いかな。
あえて、この表題を読書とせず、本を読むこととしているのは、この一年、ある強い傾向に気がついたからなんだ。


その傾向とは、小説を外から客観的に読むよりは、その中に入り込んでしまって読んでいる自分が強くそこにあることだ。
何だか主人公と共にある自分が居る。主人公になっているわけではなく、共にあるのがまた不思議なんだが。こんな読み方が良いのか悪いのか自分には分からないし、またあえてそのようにしているわけでもない。
このように本を読んでいると、読む都度、その物語の新しい環境の中で新しい自分が生き始め脈動を感じ始めてくることがわかる。小説には、物語の結末や行方がハッピーエンドに終わるものは殆どないだけに、自分が共に新しく生きる情景は苦しく刹那である。
なんだろう、幾つもの人生を歩いているような感じだ。そこから何かを学び取るとか、表現に感動とかでもない。共にそこにあることだけで精一杯だ。
いろいろな作家にめぐり合うけれど、いいとか悪いとかは関係無しなんだな。人に個性があるように、創作物にも当然個性がある。もちろん自分にも作家の好き嫌いはある。だが、先のような読み方になれば、自分の人生が選べないと同様に、その情景と主人公が在ることは強制的に認め受止めるしかない。

自分の人生であれば、過去のことと、現在その状況下に在ることを変えることはできないが、未来に影響を及ぼすことは幾らでも出来る。
だが一方、本を読むことでのその情況の展開と主人公の動静は、過去も、現在も未来も確定しており、何ら自分で影響を及ぼすことはできない。つまり本を読むことで主人公と共にあるとはいえ、自分側がその全てを完全に受け入れなければならないことになる。
当たり前のことを、もっともらしく言っているわけではなく、感情移入し一体となってその情景の中に存在していることについて、もどかしい思いで一緒に押し流されて、あるいは一緒に苦しんでいる。
このようなことが何の役に立つかは分からない。
主人公の傍にいて、逆境の中、その主人公の信念の強さに清々しい気持ちにさせられることがある。また、今回の“悪人”の主人公のように強がっていても根底にある“心の弱さ”と“心の冷たさ”が、瓜二つのように自分にあることを感じてしまう。
このようなことが何の役に立つかは分からない。
ただ言えることは、鈍感で強くあるより、多感で繊細でありたいと思うばかりである。
正直なところそのように思い続け、毎日本を読んでいる。