個室を得てから、私の化学への関心はのめり込んでいったように思われます。中学生のことですから難しい実験は及びも付きませんが、少年向けの科学雑誌を見ては電気分解やメッキなどを行っていました。実験もさることながら、私は形から入ることが得意なようで、小遣いの中から天秤やフラスコ、ビーカーなど器具集めも凝っておりました。部屋がまるで化学研究室になる夢を追っていたのかもしれません。
機械関係が好きな親父はと言えば、そんな息子の部屋を覗きに来ることはありませんでした。変なものに興味を持って、とでも思っていたのでしょう。


とある日、母がこう告げました。
「この家を建て替えることになったから、また引越ししますからね。その道具類も片づけておきなさい」
青天の霹靂です。当たり前のことですが、私に家の経済のことをいちいち説明する必要はない事でしょうが、いつも突然にその時がやってくるのです。
私は、今回ばかりは抵抗しました。
「もう引越しするのは嫌だ。絶対にこの部屋から出ていかないぞ」
といって、中からの鍵を閉めて籠城を始めたのです。しかし、呆けた息子のやることは徹底しておらず、夕飯も翌日の朝食も家族と一緒に取り、その間部屋は空きっぱなし。親父もそんなことを見透かしていたのか、その間を狙って攻め入るなんてことはいたしませんでした。
翌日、学校に出かけている間に、私の化学研究室は、綺麗な空き部屋になっておりました。私は、アッと叫びましたが後の祭りでありました。立て替える間の移転先は、私もふて腐れていたのでしょう、私の居住地の変遷とタイムラインが合致しません。博多を出るまで都合十回以上の引っ越しを経験したのですから。


さて、どこかの転居先から戻ってきたのが、六月田でしたが、前の豪邸は影も形もなく、敷地一杯を使った料理旅館でした。
ここでも私が呆けていなければ、母にこの開業資金はどの様にしてできたのか。自己資金か借金なのか、破産したのに直ぐに新しい事業ができるのか、何故旅館なのか、等を確認すべきなのでしょうが、私ときたら新しい環境が珍しく直ぐに馴染んでしまったようです。
今度は、私の部屋はどこにもなく、揃えていた実験器具類の影も形もありません。一体、どこに保管してあるのかさえ聞くこともなく、わめくこともなく、なんという諦めの良さだったんでしょう。
住居としての部屋は、一階にある帳場と兼用の居間、それに時によって宴会に使う広間(ほとんど二階の広間で足りていたようです)が家族の寝室といった具合でした。レイタも狭くなった庭で生活しておりました。
ちょうどこのころ我が家にテレビがやってきました。私達もだんだん夜更かしになって来たようです。
料理旅館は、当然のことながら夕方から営業が始まって宴会が終わるのは夜更け、泊り客があれば翌朝までと、私にとっては初めてのことばかりです。電話の取次ぎなども私がいれば私が行っておりました。受け取った電話を、ちょっと昔で言えば音響カプラーのようなボックスに入れて中継するものでした。
従業員は、板前さんが一人、住込みの中居さんが一人だったと思います。母親が女将で、親父が親父の他に何かをしていたのでしょう。営業でしょうか。
当時の博多は、西鉄ライオンズの隆盛のころで、どこに伝手があったのか、二階の広間での西鉄ライオンズの主力選手の取材や宴会が行われておりました。親父も得意顔で写真に写っておりました。
親父は、やはり営業が得意なのでしょうね。とにかく亡くなるまで商売の話ばかりをしておりましたから。
この六月田の初期までは、順調だったのか両親の喧嘩は見られず、平穏だったといえるでしょう。
料理旅館は、先の述べたように夕方から朝までが忙しい時間帯で、昼間はひっそりとしています。
私は、そのころにはまったく化学には興味関心を失っており、ラジオや電子機器に関心を持ち始めていました。何がキッカケだったのかは不明です。専門知識などあるはずもない中ですが、電子関係の雑誌の記事を参考に天神や中洲にあった電子部品屋さんに行っては部品を買い込み工作を行っていました。自室がないので空いている客室を使っていました。理屈も何も分からず、せいぜい当時流行っていた立体配線図をもとにハンダ付けをして組上げていた程度でしょう。
飼い犬も、和犬のチンとスピッツが家族になりました。親父は犬が好きだったことがよく分かりました。家族にも犬が嫌いな者がなく、可愛がっていました。親父が犬が好きだったことは、本音のところ優しい人だったのかもしれません。


この料理旅館も業績は良くなかったのでしょう。一年ほどたって、中洲にバーを開店させました。つまり、母親と姉がバーを取り仕切るということは、料理旅館を廃業するという事だったのでしょう。恐らく料理旅館では客を取れなかったのだと思います。
母親が、夜家を空けることになってから親父との喧嘩が激しくなりました。恐らくは、帰りが遅い、何をしていたんだということでしょう。親父は、バーには出ず家で酒を飲むことも多かったとおみます。
喧嘩はますます激しくなり、私は深夜に物音で目が覚め物が割れる音に耳を塞いでおりました。私は、少し収まっていた親父への憎しみが再び沸騰してきました。もちろん、ナイフで刺すなんて行動には出ませんでしたが、早く死んでほしいとは祈っておりました。
いま考えれば、親父は営業は上手いが、サービス業には向かなかったのでしょう。後年の一時期、マンションの管理人などしたこともありますが、住人との折り合いも悪く一年とは続かなかったものです。