ある日、また母親が私に告げました。
「この旅館を止めて、今度、新しい家に引っ越すから荷物をまとめておいてね。その新しい家が建つまでは、仮住まいとなるけんね、狭いところやけど我慢するとよ」
私には、今回まとめるものは学校の道具と僅かな部品だけでした。
「また引越しするとね。もういい加減に落ち着きたいね」
しかし、今回も呆けてない私がいたら考えたでしょう。どうしてそんなに新築する資金があるんだろう。確かに、繁華街に近いこの料理旅館には高値がついて売れたのかもしれないが、私には自動車屋までの親父と慣れない水商売をしている親父と、だんだん崩れていく親父が見えていました。折角お金があるのならそのお金を大事にして、もっと真面目に働けばいいのにと。生活費に苦労して母親ももめて喧嘩することと、新しい家を建てるお金は全く別物だったのでしょうか。
私にとっては、親父と喧嘩してなじられ殴られを繰り返す母を守るために、親父に反抗し憎むのであり、どんなに怖い親父であっても母と仲良くやっていてくれていれば憎むことはなかったように、今さらながら考えさせられるのだ。


そして、平尾の下の方の商店街の中にある貸家に仮住まいを致しました。もう町の名前も覚えてはいませんが、二階が住居で一回は、商店街ではお店を開くところなんでしょうが、倉庫代わりに使っていたようです。
私のその仮住まいでの記憶は、内風呂がなく、初めて近くの銭湯通いをしたこと位でしょうか。
その後暫くして、平和町に引っ越していきました。


平和町での生活は、広い庭と二階建ての家でしたが、丘の上の方でしたから友人と言えるほどの人が遊びに来ることはありませんでした。
当時、卓球が流行っていたこともあり、中学の同窓生で、どう知り合ったか分かりませんが、貝島炭鉱の御曹司と仲良くなり、すぐ近くにある大きな彼の家のガレージ脇の卓球場で卓球をしておりました。大眺閣という名前の料亭に登っていく脇道の角に彼の家はあり、大きな門をくぐってガレージがありその奥に卓球場がありました。その奥にはさらに坂道を登って行かねばならないようでしたが、私はその奥に案内されたことがありませんでした。古き卓球友人とでも言いましょうか。しかし、その後60歳を過ぎて、同じ中学生の同窓生が経営する小さなクラブで顔を合わせました。いまは、マンション経営のオーナーをやっているそうです。顔は一目見ただけで分かりました。
話は逸れましたが、平和町での生活も一年程は平和でしたでしょうか。
その家では、私にも広い個室が与えられました。8畳ほどあったでしょうか。そこでは、私は新しい趣味であるアマチュア無線にのめり込んでいきました。たまたま中学の同級生のお兄さんがアマチュア無線をやっており、同級生との会話の中で、関心が生まれ始めた無線の話題が出たので、彼の家に遊びに行きお兄さんにも紹介され、その無線室を見せてもらいました。
あっという間に虜になり、自分も免許がとりたくなり、そのお兄さんから受験の方法を教わりまたテキスト等を借りました。それからすぐの受験に合格し、無線機の組み立てに熱中しました。受信機は当時発売されたばかりのトリオの9R59というものを買ってもらいました。この時にはまだ家計にゆとりはあったのでしょう。しかし、私は家計の情況を察知する能力はかけており、両親の喧嘩の激化でそれを知るばかりでした。
受信機は、手に入れましたが、課題は送信機です。
アマチュア無線総合誌であるCQ Ham Radioを定期購読し、そこに掲載されていた実態配線図を見よう見まねで作り始めました。中学生ですから回路の理屈などはまったく不明ながらもシャーシー加工やパネル加工の仕方なども、記事のガイドと同級生のお兄さんに指導を受けながら完成させました。
親父はと言えば、私がガリガリ、ギリギリ、ガンガンと厚いアルミ板に向かって加工をしている姿を見に来て、いまは何をやっているんだ?どこまで進んだんだ?手伝おうか?ドリルはこう持つんだ!等と参加の口出しをしてきましたが、私は天邪鬼でもあり、一旦心に生まれている憎しみがどうしても許すことが出来ず、いや大丈夫だ、何とかなるから!といい、しかし強く言うと、親父の怒りが落ちるかもしれない恐怖から、丁寧に頑張る姿で断り続けました。しかし、その後も、工作をしていると必ずやってきては、にやにやと笑いながら見ておりました。
親父の手を借りた時が一度だけありました。それは、送信機も完成して電波を出すためのアンテナを立てる時でした。長い木柱は何のためなのか不明でしたが我が家に何本かあり、きっと家を建てる時の足場だったのかもしれません、それを使うことの許可を親父にもらって、一人で十メートル程の木柱を立て始めましたが、あまりに重くて一人で支えることができません。見るに見かねた親父が、穴を掘り、また木柱を二人で支え建て、風が吹いても倒れないように支線を張る作業を手際よく行ってくれたのです。完敗でした。しかしまだ私は天邪鬼が続いております。ぶっきら棒に、ありがとうだけを言い、二階に上がって電波を出すための仕事に移りました。親父はニコニコしながら手伝っていましたが、その私のぶっきら棒の後の顔はどんな顔をしていたのでしょうか。
電波はちゃんと出たようです。近くの局と交信もできましたし、友人のお兄さんとも交信できました。
当時より、精度や感度の受信機の製作は相当に面倒なものであり、もっぱら私は新しい送信機の組み立てに励み続けていました。交信より工作に関心が強かったのでしょうか。親父も交信には関心はなかったようで、どこか遠くと交信できたとね?とたまに聞くだけでした。
私には、親父が二階に上がってくると冷や冷やすることがありました。それは、旅館時代にロビーに置かれていた高級なオーディオ装置を自分の部屋に置いており、中身等は既に部品取りをしており、決して動かすことが出来なかったからです。レコードでも聴きたいね、等と言われれば地獄が始まったでしょうから。
私も部品取りにしようなんて思っても見ずに、ラジオやレコードプレイヤーがどうなっているかを見るために分解し始めると、元に復元することが出来なくなり、ラジオも鳴らず、プレイヤーも回らずとなってしまったのです。