中学から高校へと私の進路を決める際に、我が家に事件が起こりました。親父は、長姉の旦那さんが医者でしたので、将来は医者になるために大学進学率の高い高校に行けと母に主張していたようです。私はと言えば、余りに無線に熱中した結果、船舶通信士になるんだ、と進路を決め電波高校に受験を決めていました。母はここでも板挟みになり相当に困ったようでした。
結局は、母の頼みで中学の担任の先生が間に入り、親父を説得してくれたようです。親父にすれば、医者という職業にも大きな光を感じていたのでしょう。しかし、調和するところは、親父も工作好きの機械好きの性分だったのではないのでしょうか。それにしても今回も親父は直接私に苦言を呈したことはありませんでした。
そうこうしているうちに私は、電波高校に入学することになり、その入学式の日でした。親父は前日から、俺が送っていくから早めに準備しておけよ、と私に言っておりました。
電波高校は、博多港から海を渡り、志賀島の手前の西戸崎という船着場まで船で行くのが博多から通う学生の通学路だったのです。親父が言う、車で送っていくという道のりは、博多湾を湾沿いに走り、当時米軍キャンプがあった海ノ中道を通っていくかなり長い道のりだったのです。私が、その道のりを説明しても、そんなことは分かっとる、志賀島には何度も行ったことがあるから心配せんでもいい、と言って聞きません。
翌日、入学式の3時間も前から車で学校に向かいました。
学校には早めに着きましたが、入学手続きに親御さんたちも多く来ていて、想像していた親が来ているのは自分のところぐらいで恥かしい、という思いは消えました。
それでも捻くれた息子はどうしょうもないもので、帰りは一人で船で返るからもういいよ、と言ってしまったのです。それには、どのくらい時間がかかるかもしれないし、そのまま授業になるかもしれないから、等の親思いの気持ちはまったくなくて、親父と一緒に居るのが嫌だっただけなのです。
親父は、私の入学式をちゃんと見たのでしょう。しかし、帰りはどの様な気持ちで帰っていったのでしょうか。親というものは何と切ないものでしょうか。その日の夕食時もそれ以降も、親父の口から入学式の話は一言も出ませんでした。少なくとも私の目の前では。


少なくとも高校二年生までは、平和町での暮らしは安泰でした。親父は電話販売業などを手掛けていたようです。自分で店を持っていたのか、一人代理店のようなことをしていたのか、私にはよく分かりませんでした。
私はと言えば、船で高校に通い続けていました。平和町から博多港の船着場までは自転車で雨の日も合羽を着て通っておりました。台風などが来て海が荒れると船は欠航し、自ずと学校や休校となりました。
いつものように安穏は二年も続かず両親の激しい喧嘩が始まりました。
そんな折、中学の同級生グループで仲よくしていた姉妹が、我が家の犬たちや無線の部屋を見たいと、突然訪ねてきたのです。ちょうどその日は、朝から猛烈な喧嘩が始まっており、両親は大きな声で叫んでおりました。私は、庭先の門のところで、当時飼っていた犬のチンだけを抱え、家庭のことは何も言えず、しばらく話をしただけで、ぶっきら棒に家にあげることをしませんでした。私は、その姉妹の家には度々訪れていましたが、それっきりの縁となってしまいました。もう少し私に気が利いていれば、家に上げれば息子の友人が来た手前、喧嘩は延期になったかもしれず、はたまたその姉妹に恥かしくあっても喧嘩の実情を伝えていれば長い付き合いの縁も失われることはなかったでしょう。少年のすることはこのような想いでも、いまも傷として残っているのです。


喧嘩が激しさと頻度が増すある日、母がまた言いました。今度は井尻というところに引っ越すからね。また小さな家を手掛けているから、それ迄の仮住まいだから。と言いました。問題は、今度は私の所有物は結構あり、どの様にするかという事でした。
しかし、何か私には、もうこれまでとは違う生活となるだろうという予感がしておりました。私は、大切にしていた無線機やその部品などを中学から仲よくしていて一緒の高校に進んだ友人に上げることにしました。私の宝物として持っていくのは買ってもらった受信機だけでした。
井尻の仮住まいは、西鉄電車井尻駅のすぐ傍でした。そこではもう私は無線機の工作などはさっぱり諦め、何の趣味も持ちませんでした。皮肉にも高校三年生になり、無線クラブの部長となりましたが、交信にも工作にも熱中できない部長でした。
いつものように、仮住まいという私の何度目かの時代は、記憶に残るようなものやことは一切ありません。通学経路が西鉄路線に変わったこと位でしょうか。
しばらくたって、仮住まいから小さな家に引っ越ししました。引っ越しは、仮住まいから近くのところだったので、恐らくはお金もなかったのでしょう、リヤカーで母親と妹の三人で何度も往復して行いました。
リヤカーで引っ越しするのは、私にとって青春の何かを傷つけたのでしょうか、非常に恥ずかしく、引っ越しの途中にあった踏切で通貨電車を待つ間、じろじろ見られることがとても嫌でした。リヤカーを押したり引いたりしているときは、とにかく下を向いていけば顔を見られることはなかったのです。
新しい家は、家というより、トタンぶきの小屋でした。中は一応板張りで整えてあり、親父用の小さな事務所もありましたが、あとは大きな一間でした。水道は無く、汲み上げの井戸で炊事洗濯、そして風呂を賄っていました。トタン武器というのは、隙間が随所にあります。暑くも寒くもほぼ外の温度でした。また砂利道の脇でしたから、バスなどの大型自動車が巻き上げる埃は、すぐに入ってきます。健康に良くない家の典型と言った方が良いでしょう。私が経験した、初めての小さな家でした。しかし、家には大きな畑がありました。
親父は、電話の仕事を止めたようです。そしてこの庭を使って新しい事業を始めると言っています。恐らく再びの破産をしたのかもしれません。ある時、私の委任状がいるからと言って書類を見せられましたが、その他の顛末の説明は何もなく、何やら特許を出した新しい事業の意気込みが私に話されました。それは、植物の育成器についての事業だったようで、それからしばらく親父は植物関係に熱心に取り組んでいました。また特許出願についての思いもこの時期から執拗さも増してきたように思います。後年、再び植物への思いが顔を出しますが、この時が始まりだったでしょう。
高校三年生というのは、ある意味社会の仕組みも分からなければならないのでしょうが、まだ私の呆けの時間帯でありました。