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 翌春、今度は都内の工業系の私大ばかりを受験した。目標は、芝浦工大だったが、あっさり落ちてしまった。救われたのが東京電機大だった。当時、工業高校用の専門科目受験制度もあって、それに救われた。基本的には自信を持った物理や数学など普通高校卒業の生徒に学力にはとても及ばなかったのだろう。
 ようやく大学生となることができた。興南通信機は、辞めることを決意した。どう考えても昼間部の大学で、昼間の勤めを果たすことが不可能だということに気が付いたからだ。会社の社長は、無理なことは言わずに認めてくれた。夏休みに入ればアルバイトに来てくれないかとも言ってくれた。
 東京に来て、勤めを始めて、さらに東京電機大学に入っても、親父は何ともいわなかった。一言だけ、俺は昔、神田の電気学校に行きたかったんだ。その思いは、叶わなかった。だから自分には目に見える機械が好きだが電気のことはこれポッチも分からない。
 その電気学校は、自分が行く東京電機大学で電気学校もまだあるよ。と伝えたら、親父は、そうかと言って下を向いてしまった。
 パン工場で働いて貯めたお金と、この一年興南通信機で働いたお金で、当初の入学金や授業料も払え、当分の授業料も払える懐だったので、これからは本格的に勉強に打ち込めると思った。
 家では、親父は花卉に関する商品を創り、特許出願もしていた。大きな花屋さんに、自分のつくった花卉を納めることになっていたようで、私が家に帰ってから家族総出の作業にもほぼ毎日のように手伝いをさせられた。
 いずれは、近隣の家庭の内職仕事として出していくことになるのだが、そうはなっても飛び込みの受注仕事で家内作業に駆り出されることは度々あった。母は文句も言わずに手伝っていたが、妹も私もとてもそれを嫌っていた。嫌々手伝っていたのだった。


 親父は、その花卉製造を日常の仕事として、営業から製造まで一人で取り仕切っていたが、ある時どうしても家が狭いからという事だったと思うが、戸建ての家に引っ越しすることを決めてきた。確か大学二年生の時だったろうか。親父の悪い癖がまた始まったようだと、私の中に不穏な気持ちが再び芽生え始めた。
 しかし、兆候として始まる母親との喧嘩は、ほとんどなく安泰な生活が出来ていて昔のことを忘れていたのだった。
 転居先は、下井草の駅の反対側であった。確かに小さな庭もあり、部屋数も四部屋ほどあったと思う。私の部屋もあった。親父の工作室らしきものもあり、朝から晩まで親父が閉じこもっていた。
 私はと言えば、大学ではアマチュア無線部に所属していながら、無線はまったく行わず、もっぱら神田の質流れ屋さんで購入したクラリネットを毎日空き教室で練習していた。
 親父は、時折自分が創っている機械を私に見せてくれた。私は未だ持って親父を嫌いだったので、関わることをできるだけ避けようと、親父の話を聞き流した。
 親父は、紙袋を製造する機械をつくっていた。それは大きな紙を機械の挿入口に入れて、ハンドルを回していくと、機械の出口から袋状に折り畳まれ、糊付けされた綺麗な紙袋が出てくるというものだった。
 私は、その機械にはびっくりした。それは、機械の仕掛けの凄さについてであり、一つは、その機械が全部木工で出来ていたことであった。
 親父は、時折庭先で木工で歯車をつくっていた。丸く削った木を鋸とやすりで削りだし、歯車をいくつも作っていたのだった。


 それから日を置いて、いろいろな人がその機械を見るために訪ねてくるようになった。親父が売り込みをしていたのだろう。
 ある日、親父が私に言った。
 あの機械が売れたんだ。その取引のために島根に招待されたのでお前も来ないか。取引というものを見せてやろう。と言った。
 私が小さい時から、遠出するときにはいつも親父の車に乗って出かけて行った。親父は車が好きだったんだろうな。幼い時はオースチンに乗っていたというが私の記憶には外車で遠出した記憶はない。阿蘇山の草千里に家族で行って
 親父の問いに対して、その時の私は、どういう訳か一緒についていくことを承諾した。親父は、嬉しそうな顔をして、途中名古屋の妹の家に一泊していくからな。といった。
 親父は、当時ボロボロのルノーに乗っていた。ボロボロというのは、島根まで行く行程の随所に現れた。出かけてすぐに、渋谷の大きな交差点でエンストしてしまった。親父は、車を降りて正面に回り、クランク棒でエンジンを回せという。何度か商品の配送に付き合わされて経験のあった私は、今度も交差点の真ん中でクランクを回した。親父が私を誘ったのは、遠出するに当たり、ボロボロ車には助手が必要だと思ったのだろう。
何しろ、昔とは言え、渋谷の大きな交差点の真ん中で、クラクションを鳴らされて、大勢の人が見ている中でのクランク回しは恥かしく、顔が真っ赤になったことを覚えている。
また行程の随所で、エンストは起こり、新たな障害としては、後部ドアが突然開くということも起こり、最初は手で引っ張っていた。しかし、最後は後部ドア同士を紐で結わえたことも記憶している。
名古屋の親戚の家では、歓待をしてもらった。親父は姉妹たちの面倒見がよかったのだろう。きっと親父のことだから、羽振りの良い時もそうでないときも、大きな支援を重ねていたのだ。見栄っ張りとも思うが、兄弟姉妹思いの強さは私にはとてもまねできるものではない。
 島根は、宍道湖の湖畔の大きな旅館が用意されていた。夕方とは言えまだ日のあるうちに、買い取り先の井関農機の重役たちが親父と私を迎えてくれた。
 取引の契約調印はすぐに終わり宴会となった。どの様な契約だったのかまでは、呆けた息子は存じ上げていない。今を思えば、特許権の移譲なのか実施権の移譲なのか、親父には機械類を製造し販売する力はなかったのできっと特許権を移譲したのだろうと思う。
 契約調印後に、百万円の現金が親父に手渡されたのを見た。その数年後に私は会社員となるが、その初任給が凡そ一万円だったことを思えば、大金であったものだ。私は、正直驚いた。親父はそのころ、経験上から小切手などは信用しなかったのだろう。これまでに騙されたり失敗したりしてきたので、手元の現金しか信用しなかったのかもしれない。
また、井関農機で、その自動袋製造機が製品化されたのかはまったく不明だ。
私は、まだ酒が強いわけではなかったので、乾杯のビールぐらいしか口にしなかったが、料理の美味さは、宍道湖に落ちる夕日の美しさと共に記憶に残っている。発明というもののインパクトは強烈だった。
しかし一方では、不安定な職業がいつも母を苦しめており、自分は勤め人になると決めていた。


大学3年の冬、私の貯金は底をついてしまっていた。半期半期に払う授業料を秋に払って、僅かな金額しか通帳になかったのだ。
いよいよ働かねばという気持ちが起こった。しかし、前に傷を負ったように、大学を止めるなどという気持ちはこれっポッチもなかった。改めて夜働ける仕事を探そうと新聞に目を凝らし始めた。数年前に経験したように、夜働ける仕事は、水商売を除いてはそう多くなかった。
しかしある時、コンピュータの操作員という夜間作業の求人が出ていた。早速履歴書を書いて面接に向かうと合格した。だが、アルバイトは認めないという。ちゃんとした社員でなければ採用しない、けれども夕方から深夜までの時間を区切って働くことは例外で認める、という条件も出された。これはパン工場の時と同じような厚遇であると思った。
東京では、深夜12時に仕事を終えても、まだ都内の自宅まで帰ることができた。寮などに入らなくても通えるということは、通勤通学の継続可能性が大きくあるということだ。
それで私は、社員になることを承諾し、翌日の夕方から勤めに出ることになった。
大学では、どんなに遅くても授業は16時には終わっていたので、15時から日本橋への勤務には十分間に合った。大学は神田錦町にあり、歩いてでも通えるところだった。
勤務先は、大きなビルにある大正海上火災のコンピュータルームである。同僚はほぼ同じ年頃であったが、現役の大学生は居ず、ここでも随分と大事にされ可愛がられたように思う。17時から24時までの勤務であったが、週末は、朝までの勤務も行った。
私は、大学では電子計算機に関する科目は、どういう訳か食わず嫌いで一切取っていなかったが、この仕事をすることによって、コンピュータの大きな仕組みはよく分かることになった。
 親父には、金がなくなり仕事に就いたなどの余計なことは一言も言わなかったが、毎日深夜に家に帰ってくるのを不審がっていたと思うが、母には事情を話していたので、きっとそれを聞いて黙っていたのだろう。
ここでは少し大人びた生活があった。週末の朝までの勤務の時は、三時過ぎくらいになれば長時間運転の作業が多くなり、暇な時間が生まれる。そんな時には、事務室でチンチロリンで賭け事をしていた。私は賭け事に向かない性分で、いつも月末の清算に追われていた。よって自分のテレビや、家のテレビでなく拾ってきて修理して使っていたテレビ、質流れで購入したクラリネットなどを賭け事のかたに取られてしまった。賭け事は、それだけではなく、仕事に解放された朝、チンチロリンの流れでそのまま麻雀にいき勝負をしていた。これも負けてばかりだったな。


親父は、井関農機の契約金を手にしたせいもあるのだろう。少し大きな家に引っ越しすることになった。同じ下井草の奥の方の戸建ての家だった。確かに少しは広く伸び伸びとはしていたのだがあまり印象に残っていない。
この時代の親父の記憶は、家の車の借り駐車場でトラック運転手と喧嘩をしてきたことだ。車がエンストでもしたのだろう、相手がクラクションをしつこく鳴らしたので、取っ組み合いとなったという。もう親父も立派な老人であって、若い中年の腕力に敵うはずもなく、顔中ボコボコにされて帰ってきた。
親父の短気で喧嘩っ早い結果を物理的な形で見た最初だったろうか。
この家での生活を過ごしながら無事に四年生で大学を卒業した。過去の苦い経験のように、夜の勤めと昼間の学生の両立が無事にできたのだった。
また半期ごとの授業料は、有り難いことに会社の半期ごとのボーナスで十分に賄うことができたのだった。当時の景気は上々で、給与も倍々ゲームで増えていくような時代だった。
 私が勤めるソフト会社も、一番景気が良かったころではないだろうか。