立ち向かうことに意味があり 避けることには価値がない と十五夜お月さん。

12時半現在。
起床4時の予定が2度寝にて5時となる。
天気は風雨強く雨戸シャッターがガタガタなっている。よく寝ました。夢見に自分の両親が出てきた。


きょうは朝から打ち合わせで慌ただしい。最近は手続き事項の忘れ物が散見される。慌てて稟議書を作成する場面も露呈。
午後からは、展示会で大忙しとなろう。だが、明日も出勤のため、きょうは早めに終わらせていただく予定。


21時10分現在。帰宅しました。
きょうは普段より早く会社を出た。風が冷たいな。マフラーを失くしたことはまだ秘密状態。
何だか慌ただしい毎日だ。気が張っていていいことだと思ってはいるが、何処かで息抜きは欲しくなる。
今回の展示会の基本デザインについては一人で全てを決めている。色合いからして、これまでは赤黒だったが今回は白紺だ。明るくて光の海になればよいと思っている。
今回はコンセプトについても自分だけを貫いているので調整する煩わしさはない。ナレーションについてもこれから手をつけるが、思い通りにするつもり。ただこの作業を誰も横で見ていないことは残念至極。失敗するも成功するも、グイグイと基本の理念だけを見失わず突き詰めて考えて行く姿と仕事の進め方を後輩に見せたいとは思っているが、惜しくもそれは来年になるだろうな。
明日は出社して立ち会いとなる。少し遅い出社でよいのは救われる。
本日の車中読書は、”映画編”だ。まだまだ半分。これも短編集であるが、ちょっと偏った少年少女(もう少し年代は広いか)たちの仄々とした、それでいて大胆な物語だ。すきだな。
明日は帰りに、三省堂によって少し積読本を調達しておこうと考えている。


ふと思ったこと。
斉藤和義”さんの”ウエディング・ソング”の歌詞に”幸せになりたくない人は誰もいない・・・”という部分があり、いつもここでジンと来ているのだが、、、
幸せになるために、不幸な話は参考になるだろうか(もちろん本を読むということについてのことだが)。いや、説明が足りないかな。不幸な話を、どうしてここまでと言う位に暗く表現するのか、その中でほんの少しでも火の光が見えるような展望を示さないのか、そんなことは幸せになるために必要なことだろうか。
人は、自分の置かれた幸せを噛みしめるためには、不幸せな物語が対比されれば、初めて幸せが分かるともいう。
自分では、対比の中に幸せを感じることはないと思っている(自分のこと)。そして暗い不幸な話でもいいのだが、小さな光を、ホッとする温かさを感じさせてくれたら、そこに小さな幸せがあり、結局幸せには大小を図るものはない、というような考え方が好きだな。暗い本を読んでも、仄々があれば希望が持てるから。
何と未整理な話だこと、、、。
どうして小説を読むかの話をしたかったんだが。


明日も善き日でありますように。


朝:生姜蜂蜜トースト、サラダ、チョコをちょこちょこ。
昼:六文
晩:ラムの野菜炒め、お味噌汁、三穀物米ご飯