父と息子の憎しみ合った親子関係など、世間の日常には掃いて捨てるほどあるのでしょう。それぞれの係累の一生の中で、憎しみ合ったまま死別してしまうほど不幸なことはありませんが、現にそこまで許せない関係というのも、私の日常には溢れていたのです。
私、吉田啓吾は毎日仏壇に手を合わせ、またお墓を家の近くの霊園に建てたこともあり、お盆や暮や命日など事あるごとにお墓参りする都度、私の胸には深い悲しみと、言いようのない後悔が、最近とみに強く覆いかぶさってくるようになってきたのです。
いやいや、それでも親父、あんたが悪かったんだよと言い募っても、墓石の前では何の返事が返ってくるわけではありません。
私の親父、吉田平一は、今から十六年前に九十二歳で逝ってしまいました。明治生まれの頑固一徹な人でした。
私は、いまや七十歳の古希を迎えます。お蔭様でまだまだ元気で、現役で会社勤めをしております。それでも千葉から東京までの片道二時間の通勤は身に堪えるようになり、また持病も複数出始めることとなり、出勤時間は一時間ほど遅くさせていただいております。よって朝夕は必ず座れる電車を選べるのです。幸せな最後のご奉公と言えるでしょう。
通勤電車の中でふと親父のことを考える時があります。そういえば親父は、サラリーマンをしたことがあったのだろうかと。
僅かに私の記憶の中で、非常に特殊な勤め人をしたことはありましたが、それは長くは続かず、精々もって二年といったところでしょうか。人に使われる、つまり雇われることが嫌いで、実に喧嘩っ早い人でありましたね。
いつも自分の夢に拘り、いまは雇われているが、やることを見つけたら直ぐに辞めてやる、という気概で勤めていたような気がします。


親父は、明治後期に飯塚に生まれました。農家の二男坊で、九人の兄弟姉妹だったと申しておりました。それ故に実家は貧しくて、親父は尋常小学校を出ると直ぐにパン屋に丁稚奉公をさせられたそうです。貧しい生活の中、自分が一家を背負って立つんだ、という親父の一生を通じての気概は、そこから生まれたものでしょう。
ここに親父の歴史をたどる言葉として、誠に頼りなく覚束ない書きようで誠に恐縮です。これまで私の親父の一生への憎しみが余りに激しくて、親父とのまともな会話がなかった故なのです。このことに気付いて、我ながら今更ながらにビックリしております。
しかし、いま親父の供養とするために覚束ない想像力を巡らせていますが、その断片は、親父と喧嘩をして激しい言葉を吐いたときの憎悪の塊の思念でしかなかったのです。
こんな情況で、私は本当に親父を供養することができるのでしょうか。だが、最近突然天から降ってきた、私への使命には従わないわけには参りません。