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大学を卒業すると同時に私は、そのまま会社の勤めを継続していた。四年の半ばから同級生は就職活動に忙しかったが、私はそのまま今の会社に居ようとはなから決めていた。就職活動が面倒だったせいもある。
親父はと言えば、井関農機の契約金を使い果たしたのだろうか、また引越しをすることになった。今度は葛西だという。
いよいよ親父も自分の事業が上手くいかないことに腹をくくったのか、事業は続けながら、駐車場の管理人をするという。バスやトラックの大きな駐車場に小さな管理人の家があり、そこに一家で住まうことになった。
私や妹は、その駐車場が開く前に家を出て、17時に閉まって以降に勤めから帰ってくる、そして日曜祭日は駐車場も休みという生活なので、管理人の仕事ぶりがどのようなものかはまったく不明だったが、母や妹そして私にはここも決して長くは続かないだろうと感じていた。会社の人や、運転手の人達と喧嘩しなければいいのだがとも思っていた。
管理事務所というか住まいは、二間の家だったが、もうその頃は家族それぞれの荷物もほとんどなく、私も妹も休みとなれば家に居たくないので外出をしていた。
よって、葛西の街への思い入れはまったくない。


この葛西での生活は一年も続かないうちに終わり、今度は高尾に出来たばかりのマンションの管理人として生活の拠点を移すことになった。それは管理会社の手配によるものか、それとも親父が起こした何かの事情によるものかは定かではない。
高尾への引っ越し、東京へ来てからの引っ越しは、何か大騒動をしたり荷をまとめたりした記憶がない、井尻の時のようにリヤカーを引いてというようなことはまったくなかった。
高尾のマンションの管理人室は、三LDKほどの大きなものだった。私も六畳の部屋を与えられた。出来たばかりのマンションは、湿気が多く、私の部屋には直ぐに黒カビに蓋われた。
ある時、事件は起こった。浄水タンクに下水が混じっているとの通報があり、管理人としての親父は板挟みになったようだ。また生活用水として給水車がしばらくの間来ていた。結局、このトラブルが解決する前に親父は、違うマンションへの配置転換が行われ、次は新京成常盤平駅の近くのマンションの管理人となった。
よってこれまた、高尾の町への思い入れはまったくない。


常盤平のマンションも一年ばかりいたであろうが、朝早くに出て夜遅く帰るその生活には、ほとんど記憶にない。常盤台から松戸に出て恵比寿まで通っていたことになる。
母から、親父はもう勤めを辞めてまた一戸建ての家に引っ越すからとの話を聞いたが、もう驚きはしなかった。しかし、私の心の中では、もう長く住める自分たちの家が欲しいものだとの思いが強く生まれていた。
勤め先での話題も、景気が良く財形ローンで三百万円もあれば、マンションが買えるとのことで、誰が早いか競い合っていたような時代である。
親父が見つけてきた戸建の借家は、西武池袋線秋津駅のすぐ傍だった。小さくはあったものの、庭も車庫もついており、二階建ての家だった。
親父は小さな庭に植物の実験場をつくり、それでも足らずに二階の屋根上に実験場の追加を行った。親父がそこに登るたびに家は大きく揺れて、誰もが気持ち悪がった。けれど親父は全く意に介さずである。
このころ親父は、どうやって生計を立てていたのだろうか。管理人時代の僅かな貯蓄でもあったんだろうと思っている。
私は、家が揺れる度に親父に嫌な顔をした。
これまでの引っ越しを重ねての現在の情況では再びどこかに引っ越しすることはすぐに起こる事態でもあり、ついに母に家を買おうよ、自分がローンを組むから、と言った。
母が親父に直ぐに話したんだろう。すぐさま親父と母は知り合いの不動産屋を介して候補を探し始めた。私が付けた条件は、支払えるローンが組める条件でしかなかったが、親父が付け加えた条件は、庭付きガレージ付の戸建てであった。
紹介された先は、現在の京成線志津駅近く、それと成田の新興団地であった。先に志津の家を見に行ったが、程よい庭があることだけで親父が気に入った。私も小さくはあるが、両親と自分だけが済むには手ごろだと思い、そこに決めた。それから三十五年ローンが始まったのであった。成田の物件は、通勤にあまりにも遠いと考え見に行くこともしなかった。
売買契約が切ると直ぐに引越しを行った。都合四十坪の敷地であるが、ほぼ半分は庭となっていた。戸建てとは言え、平屋であった。
親父にはどのように映っていたのかはわからなかったが、私は庭に草花でも植えて、母親にのんびりとさせたい気持であった。
居間の外には小さなベランダが付いていたが、ある日勤めから帰って見ると、庭のほとんどは、親父の手でビニールハウスと化していた。ベランダは邪魔になるからと壊されていた。全く私に話もなく。
再び私に親父に憎しみが甦ってきたのもこの時だった。この家を買ったのも、母や家族の安寧のためであり、親父の我儘を増長させるためではない。しかし、この家は親父が買ったのだという気分をさせているようだった。
またある日、屋根上がみしみし言うので、どうしたと母に尋ねると、屋根上全部を植物置き場にしたという。
この置き場は、親父が勝手に育成剤として魚粉などをまくために、隣の家から猛烈なクレームが来た。親父に伝えても、植物を育てるのだから当たり前だろうと、全く意に介しない。
また毎朝毎晩屋根上に水を撒く、そのために屋根は痛み水は漏れ、虫が湧きその虫が室内に落ちてくる、等の情況も生まれるが、植物を育てるのだから当たり前だ、との一点張りである。どこか神経がおかしいのではないかとも思っていた。
結局、親父との関係はこのままの憎しみが亡くなるまで続くのだ。


これで長い期間にわたる引っ越し物語は終わり、現在もなお志津に暮らしているのだが、親父への憎しみはさらに新たなものへと変化していくのだった。
親父の執着は、植物の育成器となった。母と私は庭を楽しむ夢も果たせず、親父が自営業として始めた発明事業とまみれていくのだ。
母はやっと手に入れた我が家で、家計を支えるために保険の外交員を始めた。毎日外に出て勧誘をしていた。私は毎日通勤していたので、その成績や実態はよく分からないのだが、私も付き合いで保険に入り、恐らく親戚にも勧誘していたんだろう。
母は、一年経つ頃に、具合が悪くて病院に行くと言った。検査の結果は、子宮頸がんだと言った。直ぐに妹の旦那が事務員として勤める恵比寿の病院に入院手術ことになった。手術の日、親父は立ち会わなかった。手術が終わって、医者は全部を取り切れなかったと言った。私は強い不安感を持った。その夜、病院に止まることにしたが、深夜になり再手術となった。出血が止まらないとのことだった。どうしたんだろうかと不信も覚えた。
数週間入院しただろうか、取り切れないまま、で退院した。
その後、数カ月たってのことだった、私が会社で仕事をしているときに電話がかかってきて、母が脳梗塞を起こして救急車を呼んだという。私はその電話の後すぐに自宅に戻った。しかし、家には誰もいず、妹に電話してみると、なんと恵比寿の病院に運ばれたという。
何故、近くの病院に運ばなかったのか、親父にしてみれば手術した病院だからの思いがあったのだろうが、脳梗塞は一刻を争うものだ。救急車とは言え、都内の恵比寿までは一時間ほどかかるはずだ。この親父への恨みは拭いきれない。
私は、恵比寿にとって返し、病院に行った。右半身が不随となり言葉もできないという。可哀そうな姿になっていた。
翌日から、私は日常より早く家を出て、病院に立ち寄り、朝食の世話をしてあげたいと思った。そして病院についてみると、母一人だけ、朝食がそのままにされていて、涙がこぼれてしまった。完全看護でありながら。
そして毎日、早く病院に通いそれから会社に出ていた。
ある時、親父に、たまには見舞いに行ってくれないか、というと俺は植物の世話で家を空けることが出来なくて、と平然と言った。
この言葉は、これまでの憎しみを最強の物に補強した。
ある日、朝病院に行くと、母がミミズのような字で、箸の包み紙に、ありがとうと書いたものを私に渡した。その数日後に母は逝ってしまった。この文字を見る度に涙がこぼれてしまう。
親父への憎しみが湧いてくる。